世界卓球選手権大阪大会ルポ
練習会場から見える風景                 written by  壁谷 卓

(2001.05.14)〜

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1.

ゴールデンウィーク後半の入りとなる5月3日、世界卓球選手権の会場に到着した私は、広大な大阪市中央体育館の主な設備を確認してまわっていた。地下3階に設けられたプレスセンターに近接するサブアリーナのまえを通りかかったとき、開け放たれたドアの向こうを見やると、背面に「JAPAN」とプリントされたTシャツ姿が眼に飛び込んできた。赤のシャツと黄のシャツ、ふたつのうしろ姿が右に左に躍動している。出入口の横の壁に貼りつけられた白い紙には、黒い文字で、上に「Practice Hall」、下に「練習会場」と印刷されていた。

練習会場のフロアはほぼ正方形だった。フェンスで横3列に仕切られ、手前の列と中央の列に6台ずつ、奥の列には4台の卓球台が並んでいる。使われているのは手前の5台のみだった。左から3台を中国とチャイニーズ・タイペイの選手が占め、1台空いて、右側の2台に「JAPAN」のシャツ姿はあった。赤のシャツが武田明子、黄のシャツは川越真由だった。それぞれ男子のトレーナー(練習者)を相手にしている。

トレーナーが全力で放つドライブを、前陣でブロックする。返球が少しでも甘くなれば、お互いに容赦なくカウンターのスマッシュを見舞う。川越は腰を痛めているのか、黒いベルトのようなものをしている。ただ、動きを見ているかぎりでは、大きな影響はなさそうに感じられた。

前日、女子ダブルスでベスト4に入った彼女たちのペアが、個人戦における日本勢の唯一の救いだった。個人種目の日本女子として24年ぶりとなるメダル獲得を決めたことも快挙だが、それ以上に大きいのは、彼女たちが最終日に行われる準決勝に出場することだと私には思われた。練習会場にくるまえにのぞいた観客席は、日本選手が出場しないためか、卓球界のメインイベントだとは思えないほど空席が目立ったからだ。彼女たちが勝ち残らなければ、大会を4日残して日本の選手がひとりも登場しないという、開催国として最大の恥辱を強いられるところだったのだ。

「じゃあ、次はバックのブロックを……」
不意をつかれた私にはよく聞き取れなかったが、武田と川越にたいする指示のようだった。練習を中断して振り向いた彼女たちの視線は、穏やかな声のする円柱形の太い柱のあたりに向けられている。私の立っている場所からは死角になる柱の陰に、コーチがいるのだろう。声の主は誰なのか。確かめようと柱の向こう側をのぞきこんだ私は、そこにいた人物に眼を疑った。本来なら、ここにいるはずのない人物だったからである。

2.

柱の陰にいたのは、濃紺のジャケットに薄茶のズボンという身なりの、五十がらみの男性だった。右手をラケットに見立て、手のひらと甲を交互にかえす仕草をまじえながら次の練習を指示している。武田と川越は、その意図を確認するように同じようにラケットを動かし、小さくうなずく。ひととおり頭にいれた彼女たちは、卓球台のほうに向きなおり、トレーナーに配球のパターンを伝える。そして、ふたたびラリーがはじまる……。

コーチをしているのは、高島規郎(たかしまのりお)氏だった。今大会の日本代表選手団に名を連ねていない高島氏だった。

高島氏は2、3年まえまで日本ナショナルチームの総監督をつとめていた人物である。その指導手腕は高く評価されている、と人づてにきいたことがある。そのような評価の一端は、卓球専門誌に寄せる高島氏の文章からもうかがえるように思えた。なにより圧巻なのは、高島氏がつねに「いま」と寄り添っていることだった。過去の手法にたいする「反省」の域をふみ越えられない論評があふれるなか、国際的な卓球の趨勢を鋭く切りとり、斬新な視点を提起しつづける姿勢は、日本の卓球界においてきわだっているように私には思われた。

彼の指導を仰ぐために「高島詣で」をする選手はあとを絶たない、とも耳にした。実際、今大会直前には、松下浩二がナショナルチームの合宿のあいまをぬって高島氏のもとを訪れていた。それゆえ、ふだんであれば、武田と川越が指導を受けていたところで、なんら不思議はなかったのだが、いまは公式大会期間中であり、高島氏は日本卓球協会が派遣した選手団のコーチではなかった。高島氏の姿に私が眼を疑ったのは、代表コーチの立場にない人物が代表選手を指導している光景に違和感をおぼえたからだった。

しかし、それ以上に奇妙だったのは、本来であれば練習をみるべき立場にいる選手団のコーチングスタッフの姿が見あたらないことだった。

私はもういちど練習会場を見渡した。左側の3台で練習しているのは、まもなくはじまる男子ダブルス準決勝で対戦する中国の王励勤、閻森(ヤン・セン)、チャイニーズ・タイペイの蒋澎龍、張雁書、そのあいだにはいるように馬琳と孫晋が遊び心たっぷりのラリーを楽しんでいる。高島氏や私の立っているギャラリーには、横たわって寝息を立てている劉国梁の姿がある。日本選手団のマッサーがいるのは、武田と川越のアクシデントにそなえるためだろう。あとは練習会場係らしい大会運営スタッフがひとりいるだけだった。

いったい、どうしたというのだろう。私は練習を見つづけることにした。

3.

武田と川越の練習を眺めつづけていると、練習会場についたばかりのときには見過ごしていたことに視線を吸い寄せられた。男子のトレーナーが全力で放つボールに、彼女たちはまったく押されていないのだ。肩から上腕にかけてのシャツの生地がピンと張りつめている。4カ月まえ、横浜で開かれたITTFプロツアーのグランドファイナルで見たときよりも、身体全体が「締まって、太く」なった印象を受ける。

高島氏は時折、練習メニューを変更する指示をだすのだが、そのすべてが「切り替え」と呼ばれるフォアとバックのコンビネーション練習だった。驚かされたのは、7、8球目くらいまでの展開のなかに球種やコースが実にきめ細かく織り込まれ、死角となりそうな動きを巧みにカバーできるように組み合わされていることだった。ダブルスのサービス、レシーブからの展開のようなメニューをぼんやりと思い描いていた私は、元総監督によって「実践的な練習」の概念を吹き込まれた思いがした。

ひたすら切り替え練習についやしているところから、準決勝で対戦する中国ペアの速射砲のようなピッチに、あえてピッチで対抗しようという意図がうかがえる。それが私には頼もしかった。武田と川越の持ち味もまたピッチの速さであり、21歳の彼女たちにとって現時点での「長所の頂」を体感させることが必要だということもあるが、なにより「勝負に向きあう姿勢」を教示しているように思われたからだ。

「じゃあ、ラスト」
高島氏が彼女たちに声をかけた。練習会場の壁にかかった時計を見ると、18時をすこしまわったあたりだった。私が来てから1時間半になる。練習を切り上げてギャラリーに戻ってきた彼女たちは、高島氏から簡単にアドバイスをもらうと、ラケットのラバーをはがしながら、談笑しはじめた。

練習会場を見渡したが、コーチングスタッフの姿はなかった。私がくるまえに練習を見ていたのかもしれない。だが、試合まで3日あるとはいえ、大会期間中にそれほど長時間の練習をするとは思えなかったし、だいいち1時間半という「空白」はながすぎる。なんらかの事情によって、この日の練習の指導を高島氏に託したのかもしれない。過去の経緯から考えるときわめて可能性の薄いことだったが、そう思い込むことによって、私は自分を納得させようとした。

4.

昨日とはうってかわり、15時すぎの練習会場はにぎわっていた。16台ある卓球台はすべて使われていた。

手前の列の左から2番目の台では、ルーマニアのシュテフのドライブを、日本女子団体メンバーの岡崎恵子がカットで返球している。何日かまえに団体のメダルを争った両チームの選手とは思えないほど、ラリーのあいまに笑顔で言葉をかわしている。その右隣りの台では、田崎俊雄と坂本竜介が「フォア打ち」をはじめた。どうやら、ここは勝ち残っている選手のみに開放されているわけではないようだ。

ギャラリーにも異なるウェアが点在している。日本代表のユニフォームを着た武田明子と川越真由の姿もあった。バッグからラケットを取り出した彼女たちは、手首や足首の関節をほぐすような仕草をしている。そして、ギャラリーのほぼ中央に、「JAPAN」のウェアに身をつつみ、折りたたみ式の椅子に座っている男性がいた。日本の女子を率いる近藤欽司監督だった。

15時20分、武田明子と男子のトレーナーが、手前の列の右端の卓球台を半面かりて練習をはじめた。2、3分遅れて、川越真由も男子のトレーナーとともに、田崎、坂本の半面にいれてもらう。川越たちの台は、ちょうど近藤監督から正面に見える位置にある。私はギャラリーを行き来し、練習会場の外のロビーも見渡した。高島規郎氏の姿は見あたらない。今日は、近藤監督が指導をするようだ。

ところが、本格的な練習にはいるにはしばらくかかるだろうと思い、プレスセンターに20分ばかり立ち寄って戻ってきたとたん、私は「はっ」とした。彼女たちの練習を取り巻く光景に齟齬(そご)を感じたからだ。

卓球台が空いたためだろう、武田は中央の列の右から3番目の台に、川越は手前の右から2番目の台に移動していた。だが、近藤監督が腰をおろす椅子は、あいかわらず田崎、坂本の真後ろにあり、彼の視線は手にした携帯電話に向けられている。さらには、川越の練習を間近に眺められる柱の陰に、彼女たちを凝視する高島氏の姿があったのだ。

混乱した私がしばらく様子をうかがっていると、川越が練習を中断した。ギャラリーに戻ってきた彼女が向かったのは高島氏のもとだった。なにかを告げると、練習会場から出ていった。ただ、それだけだった。昨日は例外的な1日ではなかったのだ。私は高島氏に歩み寄った。

5.

人が近づいてくる気配を察知したのだろう。高島氏はこちらに顔を向けた。私が会釈をすると、高島氏はなんとも怪訝そうに頭を下げた。眼にはたっぷりと困惑の色が浮かんでいる。

私は名を名乗り、こう訊いた。
「本は届きましたでしょうか?」
すると、高島氏の表情が一変し、穏やかな笑みが広がった。
「どうも、どうも、届きました。ありがとうございます」
と丁寧に頭を下げ、隣りに招きいれるように私の肩をポンポンと叩いた。

高島氏とはまったくの初対面というわけではなかった。いままでに「接点」は2度あった。1年ほどまえ、松下浩二の著書の原案づくりをしていた私は、専門誌のバックナンバーを漁ってはコピーをとるという日々を送っていた。

ある日、カットマンの基礎固めに必須の練習法として紹介されていたシャドープレーが眼にとまった。高島氏が監修をつとめ、松下がモデルになっていた記事だった。本に盛り込みたいのだが、と松下に相談したところ、彼は「高島さんのオリジナルの練習法だから、許可をもらったほうがいい」とこたえたうえで、こう断言した。
「ダメだ、とは絶対に言いませんけど」

本への掲載許可依頼書と練習法のコピーを、高島氏が教授の職にある近畿大学に郵送した。松下の口ぶりからすれば無視はされないだろうと思いつつも、どこかで疑念がくすぶっているのも確かだった。だが、心配は無用だった。不安が昂じるどころか、届いたかどうかというタイミングで高島氏から電話があったのだ。
「まったく問題ありませんので、どうぞご自由にお使いください。また、なにかありましたら、いつでもご連絡ください」

本が完成した直後の今年2月、第2回卓球王国大賞授賞式が行われた卓球フェスティバルの会場で挨拶をした。間髪をおかずに右手を差しだしてきた高島氏は、「昨日、拝見いたしました」と言った。前日からはじまったフェスティバルに、出版社側が見本を陳列していたらしい。なぜか、さほどの長身ではないはずの高島氏に吸い込まれそうな感覚に襲われた私は、「本はのちほどお贈りします」と伝えるのがやっとだった。

一本の電話と、わずかの対面。いま、隣りにいる高島氏との接点はそれだけにすぎなかったが、なにを尋ねてもしっかりと受けとめてくれる胸襟の広さをそなえた人物に違いない、という印象を抱いていた。少なくとも、激高したり、はぐらかしたりすることはないだろうという思いがあった私は、挨拶がわりの会話のあと、もっとも訊きたかった質問を切りだした。
「選手団のスタッフではなく、どうして高島さんがご指導していらっしゃるんですか?」

すると高島氏は、まるで詫びるように頭を垂れながら、
「おっしゃるとおり。まったく、おっしゃるとおりです」
と繰り返したあと、きっぱりと言い放った。
「なんらかのご指摘やご批判があるのは、覚悟のうえでの行動ですから」

6.

私には高島氏を責めるつもりなど毛頭なかったが、詰め寄ったと解釈されても仕方のない私の質問にも、高島氏の穏やかな表情は変わらず、挙動にはみじんも揺るぎがない。非難の矢面に立つことも辞さない覚悟で武田と川越を指導している理由を訊ねた。

「1年半……1年ちょっとまえですかね、彼女たちが僕のところに相談にきたんです」
と高島氏は言った。

当時、ミキハウスに所属していた彼女たちの悩みは「恵まれすぎていること」だった。会社のバックボーンにはなんの不足もなく、望む環境はすべて与えられていた。だが、肝心の卓球にたいするモチベーションが、いまひとつ高まってこないことに気づいた。このような環境で卓球をつづけていいのだろうか。もっと違う環境に身をおき、苦労して卓球に取り組んだほうが、ゆくゆくは強くなれるのではないか……。

なんとも贅沢な悩みを打ち明ける彼女たちの言葉の端々に、すでに結論がでていることを察知した高島氏は「それならプロになりなさい」と背中を押した。そして昨年4月、彼女たちはレジスタード・プロ登録をし、健勝苑に移籍した。指導を請う彼女たちから甘さを払拭するため、高島氏は「特訓」で迎え撃った。いきなりベンチプレスを命じたのだ。彼女たちは仰天しつつも、なんとか喰らいついてきた。男子のトレーナーのボールに押されない肉体は、そのようにしてできあがっていったのだ。

「ただ、大会にはいってからは、僕はあまり見られなかったんです。そうしたら、彼女たちのプレーがどんどん崩れてきちゃいまして。どうしようもなくなったんでしょうね、準々決勝のまえに彼女たちが、『ベンチコーチにはいってください』って言うんですよ。もちろん、そんなことできるわけないですよね、資格がないんだから。その代わりというか、試合まえに、ここで1時間だけ練習を見たんです。それで、だいぶ落ち着きを取り戻したようでした」

日本卓球協会が派遣した選手団のコーチではない高島氏がベンチ入りできないことぐらい承知していた彼女たちが、それでも高島氏に懇願する姿を思い描いたとき、痛々しいほどに切迫した形相をしていたであろうことは容易に想像できた。藁をもつかもうとする愛弟子のプレーをひとつひとつ修正していった高島氏は、「ベンチコーチにははいれんけど、観客席にいることはできるからな」と声をかけ、メダルを賭けた決戦の舞台に送りだしたのだった。

7.

高島氏に覚悟を余儀なくさせたものは、彼女たちにたいする責任感だろう。選手団のスタッフという肩書がないことを理由に指導から離れてしまうことは、苦境にあえいでいる愛弟子たちを最高の晴れ舞台で放りだすことに等しい。

だが一方、選手団のコーチの立場からすれば、代表選手を指導するのは我々の役目だ、というプライドがあるはずだ。高島氏がいくらふだんの彼女たちの練習を見ていようとも、大会期間中に代表選手を指導することにたいしては、「越権行為」だという思いがくすぶっているに違いなかった。

「選手団から、指導をお願いされたわけではないですよね」と私は訊いた。
「もちろん」と高島氏は言った。
「それなら、クレームがきているのではないですか」
「いえ」
あっさりと否定した高島氏は、こうつづけた。

「あとから言われるんじゃないですか、あとから。全部そうだったんですよ、いままで全部。事前にはなにも言われない。あとから『俺らがやっているのに、横からやられたらやりにくい』となるわけです。たぶん今度の総括ミーティングでも、また僕の名前がでてきて、『高島はけしからん』という話になると思いますね」

「全部」というのは凄みのある言葉だ。少なくとも、彼が総監督を退いてからの世界選手権は全部ということなのだろう。ただ、高島氏の発言には推測の域をでないものも含まれている。そんな思いが脳裏をかすめたとき、武田と川越に視線をやりながら高島氏が放った言葉に、私の思いは吹き飛ばされた。
「いまだって、彼女たちは『高島にメニューをつくってもらって練習したらいいんじゃないか』と言われてるようですから」

武田、川越の指導を高島氏に委ねるのであれば、当然、選手団のスタッフに迎え入れるべきだった。ただ、その点については、コーチングスタッフを責める気にはなれなかった。選手団のメンバー編成については、日本卓球協会の上層部の意志がより強固にはたらいていると思われるからだ。ねじれた構図ではあるとはいえ、コーチングスタッフにとって、選手をよく知る人物の指導を容認することが「勝つ」ために取り得る最善策だったという見方もできなくはない。

だが、それでもやはり、コーチングスタッフは高島氏の指導を黙認するべきではない、と私には思えた。黙認するぐらいなら正式に依頼するべきだし、依頼をしないのであれば、「その必要はない、我々の力で十分にやれる」と突っぱねるべきだ。それがJAPANのウェアに袖をとおすことを許された人間の矜持であるはずだ。

「こっちでやるから、負けたら責任とるから、と言われれば、誰でも納得しますよね」
願望ともとれるような質問が私の口を衝いてでた。
高島氏は「そう、そう」とうなずいて言った。

「おっしゃるとおり。そういう風にしてくれればいいんです。それが本来、ナショナルチームと呼ばれるチームのあり方だと思いますね。そうしたら、こっちも『責任もってやってくれますね』とお願いできるわけです。でも、なにも言われない。選手の意志も無視できない。だから批判されるのは承知のうえでやっているんです」

8.

私たちのすぐ近くの卓球台で練習をしている川越の視線を感じた。高島氏と眼が合った彼女は、左手に握ったラケットを動かして練習メニューを確認する。高島氏が「それでいいよ」というように2、3度うなずくと、彼女は卓球台のほうに向き直った。

練習の邪魔になっていたことに気づき、話を切り上げようとすると、高島氏は「いいんです、いいんです、まったくかまいません」と私の肩を包むように制止した。私に異論があるはずはなかったが、練習を眺めながらの会話としてはいささか重すぎる気がしたため、話題を彼女たちに向けた。

「男子のトレーナーのボールに押されていないのには、びっくりしました」
「横浜のあとから、女子のボールはいっさい打たせていないんです。はじめのころは全然追いつかなかったんですけど、みっちりと筋力トレーニングを積んでますから、いまでは男子のボールをまったく苦にしないでしょ」

1月に横浜でのグランドファイナルが行われてから、4カ月がたつ。ITTFプロツアーでの年間ランキングの上位者に出場権が与えられるグランドファイナルに、当初、武田、川越のペアは出場を許されてはいなかった。ところが、出場が決まっていた日本の坂田倫子、内藤和子のペアが、坂田の引退により取りやめになり、急遽、代役で出場することになったのだ。そこで中国、韓国のペアを撃破する活躍をし、準優勝に輝いたのだった。

一躍、周囲から大阪でのメダル候補にまつりあげられた彼女たちは、グランドファイナルでの活躍がフロックではなかったことを今大会で証明したのだ。

「ひたすら切り替えの練習をしているのはどうしてですか」
「2人ともバックハンドはいいんですが、フォアハンドの打球点が遅れるんです。いかにフォアハンドを前でさばけるか。いろんなパターンを組み合わせながら、それをチェックしているんです」

「どんなアドバイスをしているんですか」
「武田には『足を使うな。腰から上のひねりで打て』と言ってあるんです」
足を使うな? どういうことなのか……。

9−1.

意味を把握できない私に、高島氏は「これは本人には言っていないんですが」と前置きしたうえで説明をはじめた。
「武田は胴が短いんです。上半身のひねりだけでは、なかなか強いボールが打てないんですね。フォアハンドを打つときに足を使わざるをえない。足を使って体重を移動させることで威力を出そうとするんです。ほら、右のひざが折れるでしょ?」

そのとおりだった。フォアハンドでの打球後、右ひざが内側にガクッと折れる。一瞬ではあるが確かに折れる。すると全体重が左足にのしかかってしまう。バックハンドなら、そのまま体重を右足に移しながら無理なく打てるが、フォアハンドをしっかりと打つには一度、左足の体重を右足に移しかえる動きが必要になる。打ってからボールが返ってくるまで0・何秒というトップレベルの卓球では、その「一瞬」が致命的な遅れになる。

「川越には、『お前はとにかく腰だ。腰を悪くせんよう気いつけなあかんぞ』と。というのは、彼女は試合でものすごく緊張するタイプなんです。いかに試合を迎えさせるか、メンタル面の調整が難しい。技術的にあれこれ言うと、不安材料を増やすだけですから。腰はもうたいしたことはないんですけど、そうやって意識を別のところに向けさせておいて、技術的なポイントをちょっとずつ合間、合間に挟んでいるんです」

正確な知識や卓越した理論を持ち合わせた指導者は枚挙にいとまがないだろうが、それを素のまま提示するだけでは指導者として十分ではない。時として、選手をますます困惑させてしまうことすらあるからだ。選手にすーっと浸透していくような「伝達力」を兼ね備えてこそ、一流の指導者たりえるのだ。

そのような思いがあった私には、彼女たちの「吸収力」を踏まえ、さりげなく、だが確実に足りないものを補っていく元全日本総監督に、ひとつの理想型を見た思いがした。

9−2.

「選手をよく知っておかないと、いい指導はできませんね」と私は言った。
すると、高島氏は、
「僕がナショナルチームの監督のとき、『選手カルテ』というものをつくったんです」
と言い、そのカルテの説明をはじめた。

「この選手はどんな両親に育てられて、どんな学校で、どんな指導を受けてきたか。なにが好きで、なにが嫌いで、お風呂ではどこから洗って、靴ひもはどういう結び方をして、どんなジンクスがあるか。『えー、高島さん、私のこと、そんなことまで知ってるんですか』と言われたぐらい、もう徹底的に調べて。病院のお医者さんが患者さんのカルテをつくるのと同じですね。そこまで調べないと、勝負所の1本をこう打てとは言えない、というのが僕のやり方なんですよ。そういったものを知らずにやったら、失敗するんです」

2ヵ月まえの東京選手権でのことだった。中国人選手が多数参加するため、全日本選手権よりもレベルが高いとも囁かれるその大会には、日本代表選手も数多く出場した。川越は、ベスト8入りを賭けた女子シングルス6回戦で、出雲西高校の馮暁雲という留学生と対戦した。馮は5回戦で小山ちれをストレートで破って勢いに乗っている選手だ。

「川越は馮と1度やったことがあるんです。そのとき、僕は『バックを中心に攻めろ』とアドバイスしたんですが、そのとおり攻めて勝っている。当然、今度もバックを攻めますよね。で、1セット目を簡単にとって、ベンチに戻った。そうしたら、ナショナルチームのベンチコーチが『バックはだいぶ慣れてきたから、次はフォア攻めろ』と」

めった打ちを喰らって逆転負けを喫した川越は、高島氏のもとに戻ってくるなり呟いたという。
「もう、なにがなんだか、わからくなって……」
混乱している彼女を落ち着かせ、高島氏は諭した。

「ナショナルチームのコーチにたいして、言いにくいやろうけど、本当にあなたがこうやれば勝てると思ったら、『こう攻めないと、調子があがらないんだ』というぐらいの気持ちは言ってもいいんやないか。世界選手権でも、必ずそういう場面はでてくるでな。そのときに言えんようやったら、負けるよ」

10.

高島氏の読みどおり、この世界選手権でも似たような局面が訪れた。ベンチコーチから「入らないんだったら打つな。つないでいけ」とアドバイスを受けた彼女たちは、首を横に振った。振れるようになっていた。
「私たちは打たないと負けちゃうんです。打っていれば、そのうちに入るようになります」

大会関係者から一様に絶賛され、メダル確定の武器となったという力強いスマッシュは、技術力や筋力トレーニングの成果によってのみ繰りだされたものではなかったのだ。

「ヨーロッパや中国の選手は『自分の力で1ポイント取れるような技を磨きなさい』と小さいころからずっとレッスンされていて、それがしみついているんです。だから、どんな場面だろうが攻めてくる。それなのに、日本の選手はみんな、つないでいたら相手がミスしてくれるんではないか、という戦い方をしているわけですよ。

力が拮抗しているレベルでは必ずセットオール、19オール、ジュースになると、最初から思ってかからないといけないんです。そのとき、ウイニングショットとしてどれを押さえておくのか。詰め将棋と同じで、詰め方は決まっているんです。日本では技術は教えるけれども、戦術的な訓練がまだまだ足りない」

そのうえで、と高島氏はつづけた。
「対外試合になったら、その国の人の気質なり、文化なり、そういうものを研究しておかないと、技術、戦術だけでは勝てないんですね。この選手は最初に大量リードしたらあきらめてしまうような気質の国の人であるとか。そういうものをインプットしておかないと。それが対外試合の難しさなんですね」

「そういう強化を、高島さんは4年かけてやろうとしたんですね」と私は訊いた。
「そうです」と高島氏はきっぱり言った。
1998年1月、高島氏が総監督になり、元スウェーデン監督のソーレン・アーレン氏を外国人として初めて監督に迎えた日本ナショナルチームの強化体制が発足した。

「1年目はこれ、2年目はこれ、3年目はこれ、4年目はこれと、すべて計画をつくってあったんです。でも、みんな、1年目しか見てないから、『なんだ、あんな練習。誰でもできるじゃないか』と思ったはずですよ。でも、基本がしっかりしてないうちに、いきなり強いトレーナーを連れてきてガンガンやったところでね。順序があるじゃないですか」

高島氏が苦笑した。
私も苦笑した。
苦笑しながら、私は「もし」と思った。もし、その体制が、当初の予定通り、この世界選手権大阪大会まで継続していたなら、と。強化指定選手に名をつらねた武田、川越は、果たしてどのぐらいの選手になっていただろうか、と。

11.

5月5日、武田明子と川越真由の練習は14時からはじまった。予定より1時間遅いスタートになったのは、高島氏が「見なくちゃならないんです」と話していた男子シングルスの準々決勝が長引いたためだった。

10時からはじまった準々決勝は45分間隔でタイムテーブルが組まれていたのだが、1台の卓球台のみで4試合を行うため、まえの試合が終わらないことには次の試合に移れない。3−0のストレートで決まらないかぎりタイムテーブル通りに消化するのは難しく、第4ゲーム以降にもつれこむと1時間はかかる。やはり40ミリボールの影響は大きいようだ。

昨日までと違い、川越の相手をしているトレーナーは左利きだった。明日の準決勝で対戦する中国ペアの1人、孫晋(スン・ジン)と同じスタイルだ。今日は仕上げにダブルスの練習をすることになっているので、その対策だと思われた。

しばらく彼女たちの練習を眺めていたものの、どうにも集中できない。まだ本格的な練習にはいっていないこともあるのだが、武田と川越のあいだの卓球台に陣取っている中国の練習が気になって仕方がないのだ。

間もなくはじまる女子シングルス準決勝に出場する女子選手が練習をしているところなのだが、中国国家チームの陸元盛(ル・ユアンション)女子監督がみずからラケットを握り、相手をしているのだ。

それだけではない。選手のそばにはもう1人のコーチがつき、しきりにフォームをチェックし、激しい口調で修正ポイントを指示している。つかの間、「しごき」に見えたほど、格別に熱を帯びているのだ。

12.

それまで私が練習会場を訪れたときに眼にした中国選手の練習は、お世辞にも熱心とは言いがたかった。右利きの選手がラケットを左手に持ち替える。攻撃型の選手がカットマンの真似をする。ようやく真剣に打ちはじめたと思ったら、「ちょっとトイレ」という風に、すぐに会場から姿を消してしまう。

ある日の劉国梁にいたっては、ユニフォームにウインドブレーカーをはおっただけの格好で横たわり、寝息を立てているほどだった。試合が控えているから身体をほぐしているという義務的な匂いが漂い、「腰を据える」という雰囲気がさっぱり伝わってこないのだ。

コーチも必ずしも帯同しているわけではなく、居たところでとりたてて指導するわけでもない。すでに大会に臨むまでに「勝てる訓練」を施してきた、あとは選手が力を発揮するだけだ、という自負のあらわれなのだろうが、大会まえの1ヵ月以上におよぶ強化合宿のあいだ、選手から携帯電話すら取り上げると報道された統制ぶりとのイメージのギャップに、当初、面食らったのは確かだった。そのような中国の練習光景に眼がなじんでいたため、指導スタッフが鞭(むち)を入れる練習が新鮮であり、驚きでもあったのだ。

鞭を入れられている選手は、林菱だった。陸監督が握っているラケットにはナックル性の球質になる「ツブ高ラバー」がはってあり、林菱はそのナックル性のボールを徹底的に打たされていた。

華奢な身体からは想像できないほどの豪快なドライブを放つ林菱だが、ふらふらと沈みながら飛んでくるナックルボールの攻略は苦手らしく、ドライブの球道が安定しない。フォームや打球点の欠陥をコーチから身ぶりを交えて指摘されるのだが、なかなか修正されず、そのたびに上気した顔を苦しげにゆがめる……。

13.

対戦相手となる北朝鮮のキム・ユンミへの対策だった。

キムはペンホルダーの表面に裏ソフトラバー、裏面にツブ高ラバーをはり、バックサイドに打たれたボールをツブ高でナックルボールにして返球し、相手のミスを誘う。警戒した相手がフォアサイドにボールを集めるとドライブで狙い打ちするという独特のプレースタイルで、3回戦で世界ランキング2位の中国の李菊を破る大番狂わせを演じると、ハンガリーのトート、ルーマニアのシュテフと、世界の強豪を次々に沈めてきた。

もはや59位という世界ランキングは無意味な数字と化し、国際大会への出場機会がきわめて少なく、準優勝した女子団体でも起用されなかったことが、情報不足の他国に脅威にすら作用していた。

それゆえ、林菱へのスパルタ的な練習の意味はわかる気がした。

世界ランキング14位の彼女が団体メンバーにはいらなかったのはもちろん、すぐさま若手への世代交代が進む国内事情のなか、誰もを納得させる実績を残しているとはいえない24歳の彼女がシングルスにエントリーされたこと自体、意外なことでもあった。つまり、林菱にしても準決勝まで進んできたのは快進撃であり、中国が自信を持って送りだせる選手ではなかったのだ。

さらに、女子シングルスのもう一方の準決勝に進出した2人は、連覇を狙う王楠、横浜のグランドファイナルで優勝した張怡寧の中国勢だった。すなわち、林菱がキムを破れば、中国の金メダルが確定するのだ。

林菱の激しい練習を眺めながら、私はこの日の午前中に眼にした孔令輝の練習を思い起こした。

14.

中国選手の多くが熱心に練習しているように見受けられなかったのは、飛んできたボールを漠然と打ち返しているという散漫な印象を拭いきれなかったからだ。少なくとも私には、彼らの練習から「明確なテーマ」をつかみとることができなかった。

例外が、林菱であり、男子シングルスの準々決勝を控えた孔令輝だった。林菱の練習がツブ高ラバーから繰り出されるナックルボールをドライブで攻略するという一点に集約されていたように、孔令輝の練習もまたレシーブからの展開を徹底的に繰り返すことにすべてが費やされていた。

この日、10時からはじまった男子シングルスの準々決勝に残ったのは、孔令輝をはじめ王励勤、劉国梁、馬琳、劉国正の5人の中国勢と、韓国の金擇洙、チャイニーズ・タイペイの蒋澎龍、そしてベラルーシのサムソノフだった。

第1試合では世界ランキング1位の王励勤が金擇洙に勝ち、第2試合では前回チャンピオンの劉国梁が蒋澎龍に負けた。準決勝の一方のカードが決まり、第3試合の馬琳と劉国正の「同士討ち」がはじまるまえに観客席を立った私は、プレスセンターに戻って一息ついたあと、練習会場に向かった。

とりたてて目的があったわけではない。2日前に取材に訪れ、偶然にも武田明子、川越真由の練習を眼にしてからというもの、練習会場に立ち寄るのがなかば習慣と化していたにすぎなかった。無意識のうちに練習会場に足を踏み入れ、気がつくと練習をぼんやりと眺めているということもしばしばだったほどだ。

自然と足を運んでしまう理由はよくわからなかったが、そこには何かがある、という「勘」のようなものが微かに刺激されるのを感じていたのは確かだった。そして、目的もなく向かった練習会場で孔令輝の練習に遭遇したことによって、あてのない勘が、ゆるぎのない確信へと変わったのだ。

15.

孔は、対戦相手となるサムソノフのフォア投げ上げサービスを想定し、練習パートナーに似たようなサービスを出してもらっては、ネット際に小さく落とす「ストップ」、払いとも呼ばれる「フリック」などのレシーブからのラリーを丹念に繰り返していた。額からは汗がだらだらと滴り落ち、見ているほうが疲労を感じるほどの激しさなのだが、いっこうに練習を切りあげる様子はない。

驚いたのは、感触がしっくりこないのか、孔がスペアラケットまでを取り出してきて卓球台に向かったことだった。間もなく試合会場に向かう選手が、それも95年の世界選手権、昨年のシドニー・オリンピックと、2度も男子シングルスの金メダルを首から下げた男が、試合直前の練習で予備のラケットを試すことがにわかには信じられなかったのである。

それだけの不安を抱えていたのだろう。シドニー・オリンピック以降、故障などで満足な練習ができなかった彼は、今大会になっても本来の調子を取り戻せず、「精密機械」と評されるオールラウンドプレーは影をひそめていた。

その状態を象徴しているのは、男子団体準決勝の韓国戦で2敗を喫したことだった。彼がひとつでも勝っていれば歴史に埋もれてしまったであろう試合を、世界選手権史上、屈指の名勝負として語り継がれるに違いない激闘にしてしまったのは、ほかならぬ孔自身だった。チームメートの踏ん張りがなければ、帰国してから「戦犯」扱いされるのは避けようがなかったところだ。

さらに、孔が対戦する元世界ランキング1位のサムソノフは、97年の世界選手権で2位、98年ヨーロッパ選手権で優勝という実績を持ち、つねにその名を優勝候補につらねる存在だった。今大会、ベスト8入りを賭けたスウェーデンのワルドナーとの試合では、10回連続の出場を果たし、過去のすべての大会でメダルを獲得している卓球界のモンスターにまったくつけいる隙をあたえず、ヨーロッパのエースの新旧交代を印象づけていた。

孔が練習をやめたのは、私が見はじめてからゆうに40分は経ったころ、やってきた審判から試合会場にはいるように促されたときだった。それでもなお名残惜しそうな表情をしている孔に強い印象を受けた私は、ふたたび観客席に足を運んだ。そして、圧巻のプレーを眼にすることになった。

16.

試合は孔のレシーブにはじまった。サムソノフのフォア投げ上げサービスを巧みなストップレシーブからのドライブ攻撃などで3点連取した。機先を制したこのレシーブが、試合の流れを大きく支配することになった。サムソノフの得意とするフォア投げ上げサービスからの展開が、さっぱり有利にならないのだ。サービスのコースを変えたり、バックサービスに切り替えたりと試行錯誤をするのだが、得意のパターンを封じられたため、点差を一気に詰めたり、離したりということができない。

孔が2ゲーム連取し、サムソノフが1ゲーム奪い返した第4セット、孔の真骨頂があらわれる。17−18と1点リードされた場面、サムソノフのバックサービスがフォア前にきたところを、バックフリックでレシーブエースを奪い、18オールに追いつく。19オールからの局面でもフリックを決め、20−19とマッチポイントを迎えた。

サムソノフには出すサービスがないように思えた。どうにでもなれという感じで、フォア投げ上げサービスを孔のバック前へ。孔はためらうことなくバック面でストレートコースを狙ってフリック。しかし、ネットに引っかけるミスとなり、ジュースにもつれこんだ。

孔は勝負を焦った、と私は思った。しかし、次の局面に及んで、そのミスは、完璧に獲物を仕留めるための周到な伏線だったのではないか、と思わされることにもなった。サムソノフが最後に頼るのは、フォア投げ上げサービスしかなくなっていたからだ。

孔は21−20と2度目のマッチポイントを迎えた。サムソノフのサービスは、やはりフォア投げ上げサービスだった。先ほどと同じような軌道を描いたボールは、呼び寄せられたように孔のバック前へ。すばやくネット際に身体を寄せた孔はバック面でストレートコースにフリック。スマッシュ並みに強く弾かれたボールはネットに引っかかることなく、サムソノフのフォアサイドのコートに弾んだ。大きく流れてゆく白球に、サムソノフは、追いつけなかった。

17.

サムソノフの得意のサービスを封じるという一点に活路を絞りこみ、それを活かしきる試合展開に持ち込んだ戦術は、実に巧みで鮮やかだった。ワルドナーのあとに登場した稀代のオールラウンドプレーヤーである孔令輝とサムソノフ。もし、孔に一日の長があるとするならば、必要な得点を本当にほしいときに確実にもぎとる術になるだろうか。それが世界の頂点に立った男と、いまだ途上にある男との間に横たわる、わずかだが険しい差のように思えた。

しかし、見事な戦術以上に私がうならされたのは、孔の調整の仕方だった。調整というと、疲れを残さないという体調面のコンディショニングに重点がおかれ、ややもすると「軽めの練習で切りあげること」ととらえられている節がある。それはそれで誤りのない方法なのかもしれない。しかし……。

世界の頂点に2度立った男は、違った。断じて、鞭を緩めなかった。不安をできる限り拭い去ろうと、直前まで必死にもがいていたのだ。
私は孔のうしろ姿によって調整の本質を教えられた思いがした。

18.

練習会場の出入口のまえにはロビーが広がり、その一角にテレビが設けられている。大阪市中央体育館というエリア限定で試合の映像を流しており、試合を控えた選手やコーチが進行状況を確認したり、「持ち場」を離れられない運営スタッフがのぞいたりしていく。

いま、女子シングルス準決勝の林菱とキム・ユンミの試合を映し出していた。林菱とキムの試合も見たいが、武田と川越の練習も気になる。迷った私は「折衷策」として、そのテレビのまえにいたのだった。

林菱は第1ゲームこそものにしたものの、練習光景とおなじように、キムが繰りだすナックル性のボールにてこずっていた。ドライブの球道が安定せず、ミスによる失点が重なる。ミスを恐れる気持ちが先に立つとスイングから鋭さが失われ、入れただけのゆるいボールを相手からすかさず反撃される。

そのような悪循環から第2ゲームをキムに奪われ、この第3ゲームにはいっても戦況は変わらなかった。じりじりと点差が広がっていき、4−9と5点リードされたところでタイムアウトがかかった。

林菱のベンチコーチにはいっているのは中国国家チームの総監督、蔡振華だった。個人戦ではめったにベンチにはいらない蔡総監督ではあるが、孔令輝とサムソノフの試合でもそうしたように、「大一番」にはベンチにどっかりと腰をおろす。

チームのウェアを着用するのがお決まりの卓球には珍しくベージュのジャケットと黒のスラックスを身につけた姿は、泰然と選手を見守る姿と相まって、侵入を試みる外敵のまえに聳える牙城のように見える。

蔡総監督は選手として1980年代前半に活躍した。世界選手権のダブルスで2度優勝したものの、シングルスでは決勝に進んだ1981年、83年ともチームメートの郭躍華に敗れ、世界タイトルを手にすることはなかった。世界チャンピオンを次々と輩出する中国において成功した選手とは言い切れないのだが、しかし、そのような戦績のなかに一世を風靡した蔡の真価は見あたらない。

19.

シェークハンドラケットの片面に裏ソフトラバーをはり、もう片方の面には裏ソフトと見た目や打球音がきわめて似かよった、それでいて逆の性質を持つ「アンチトップスピンラバー」をはっていた蔡は、対照的な性質の2つのラバーを完璧に操り、ラケットを自在に反転させる「異質反転」という攻撃スタイルを確立したほか、身体でインパクトを隠す「ボディーハイドサービス」を使って相手を惑わせた。

戦略家の素養の一端がうかがえるその頭脳的なプレーは対外的に無類の強さを発揮したばかりでなく、異質反転、ボディーハイドサービスを世界的なブームにした。

しかし、観客にわかりにくいミスが多い用具頼みの卓球は好ましくないという声が大きくなり、1983年、「ラバーを両面にはる場合は異なる色にする」「ボディーハイドサービスを禁止する」というルール改正が行われた。

ボディーハイドだけならまだしも、ラバーの色によって相手から球質を見分けられてしまえば、異質のラバーを反転させる効果はめっきり薄くなる。「蔡つぶし」とも囁かれたこの改正により、選手としての彼は殺された。卓球の「芸」が殺された。

中国卓球協会の勧めにより85年に一線を退いた蔡は、コーチの勉強のためイタリアに渡った。スウェーデンを筆頭にヨーロッパ勢が台頭しつつあったころで、中国にはなかったクラブによる強化や運営のシステムなどを、蔡は3年8ヵ月かけて学んだ。そのあいだ、中国の男子が急落の一途をたどり、コーチ留学から戻った蔡が男子監督に就いて間もない91年の世界選手権では団体で史上最悪の7位に低迷した。

中国がお家芸とする速攻──中国式ペンホルダーに表ソフトをはり、小技の巧みさとタイミングの早さでたたみかける伝統のスタイルが通用しなくなっていた。「ペンホルダーを改革せよ」という中国卓球協会の号令のもと、「裏面打法」という革新的なスタイルをあみ出す一方、シェークハンド選手の養成に力を入れ、ヨーロッパ対策としてラリー戦での強化を徹底した。

93年に2位に浮上すると、95年に地元で開かれた天津大会で王座に返り咲いた。そして97年から総監督に就き、男女を統括している。

20.

蔡総監督はこの第3ゲームが、勝負を左右するターニングポイントになるとふんだようだ。1試合に1回しか与えられないタイムアウトを5点リードされた局面で使った以上、是が非でもこのゲームをひっくり返さなければならない。

もし、作戦が不発に終わり、先行を許すような事態になれば、試合内容からみて、キムの勝勢を覆すのは難しいように思えた。テレビから音声は流れてこない。かりに聞こえたところで中国語が理解できるわけでもない。ただ、蔡総監督のアドバイスによって、虚空をさまよっていた林菱の瞳が標的を見定めたかのように「光」を宿していくのがわかった。

林菱は戦術を転換した。ドライブで攻め込むのは「確実なボール」に限定し、キムの攻撃を台から離れてしっかりとドライブをかけ返す。先ほどまでの窮屈そうだったプレーとは明らかに異なり、振り幅の大きい伸びやかなドライブが戻ってきた。

9−11、12−13と挽回し、13−13と追いついたとき、私の隣りで「ポン」と一回、拍手の音がした。先に決勝に名乗りをあげ、テレビ画面に見いっていた王楠だった。思わず叩いてしまった、という照れなのだろう。はにかんだ表情が浮かんでいる。私にはそれが嬉しかった。

前回の世界選手権、シドニー・オリンピックで女王の座についた王楠の人気は凄まじく、仕事の一部といえるほどにサインや記念撮影を求められる。彼女はけっして断らない。だが、まるで条件反射のように、きまって表情を無くす。心を閉ざすのだ。笑顔を見せたとしても、瞳は笑っていないのだ。しかし、拍手したその瞬間は、女王の仮面がはがれた。素顔の一端が垣間見えたように思えたのが嬉しかった。

じわじわと林菱が優位に立ち、19−17でリードを奪った局面でドライブの応酬になった。遠心力を利かせた林菱のボールに負けまいと、キムは台に近いポジションをとって対抗する。1本、2本、3本……激しいラリーがつづく。意地と意地がぶつかりあった勝負を分けそうなポイントだ。おなじ1点でも、「重み」はすべて等しいわけではない。林菱の執念が上回った。キムの打球がコートを外れた。王楠がテレビのまえを去っていった。

21.

勝負をかけた第3ゲームを接戦で制し、第4ゲームを一方的にリードしながらも、なにかに「憑かれた」ような林菱の表情は変わらなかった。勝利を決め、蔡総監督の祝福を受け、ベンチに腰をおろすと、林菱はタオルに顔をうずめた。抑えていた感情が一気にあふれでたようだった。

テレビ画面にアップで映し出されたその姿を見つめながら、彼女の闘いは終わったのだな、と私は思った。彼女は「頂点」に立ったのだな、と。

林菱とおなじブロックにいた中国選手は世界ランキング2位の李菊、6位の楊影だった。ともに団体のメンバーであり、実力的には林菱より上と見られている選手である。ところが、ベスト16入りをかけた3回戦で李菊が、楊影が、ともに姿を消すという波乱が起こった。王楠のいるブロックの4人の中国選手は順当にベスト16に名を連ねたのだが、林菱のブロックの中国選手は彼女ただ1人になってしまったのだ。

楊影はまだしも、李菊は必ずや金メダル争いに絡むと目論んでいたはずの中国国家チームにとって大きな誤算だった。王国の威信をかけて、林菱をなんとしても勝ちあがらせなければならなくなった。

その時点から彼女は彼女ではなくなった。比較的気楽に戦える立場から、国家チームの「使命」を一身に背負わされる立場に変わった。3回戦で日本に帰化した羽佳純子を破った林菱は、ベスト8決定戦でチャイニーズ・タイペイに移った世界5位の陳静、準々決勝でオーストリアに渡ったリュウ・ジャと、ことごとく中国から移住した選手と対戦し、ことごとく沈めてきた。そして、キム・ユンミを下して中国の金メダルを確定させたとき、彼女は国家チームの使命から解放され、涙を流した。彼女が闘っていたのは、対戦相手ではなかった。

彼女が実力以上の躍進を遂げ、決勝の舞台に立つことを許されたのは、望むと望まざるとにかかわらず、守るべき巨大なものを背負ったからであるように私には思われた。乗り越えて得るものへの喜びより、乗り越えられずに失うものへの恐れが大きかったからではないかと思えたのだ。

重圧に押しつぶされそうになる自分自身に打ち勝ち、使命を果たした。失うもののなくなった林菱のボールに、もはや魂(ソウル)が乗り移ることはないだろう。メダルを確定させて中国戦に臨んだ日本女子チームのように。果たして、武田と川越はどうなのか……。

22.

練習会場にはいってしばらくすると、武田、川越がダブルスの練習をはじめた。サービス、レシーブからのパターンを丹念に繰り返していく。

「武田、サービスのあとの逃げがちょっと遅れるときがあるで」などと、時折、高島氏から修正ポイントの指示がある。こころなしか、遠慮がちなプレーが見受けられる。試したいことを存分に試していないかのようなのだ。それは、左隣りの卓球台で、明日対戦する中国ペアの孫晋と楊影が練習をはじめたからかもしれなかった。

「ちょっと意識しているんですかね」
「そうですね、意識しているんじゃないでしょうか」
高島氏の答えに私はほっとした。意識しているのは、勝ちたいという気持ちのあらわれでもある。

一方の中国ペアは、いつもそうしていたように、身体をほぐす程度に軽くボールを打っている。孫晋は陽気な性格なのか、よく話しかけ、よく笑う。聞き役の楊影はひたすらあいづちを打つ。日本ペアのことは眼中にないようだ。もちろん銅メダルで満足したからであるわけもなく、横浜でのグランドファイナルの決勝で圧倒した相手なのだ。意識の俎上にのらないのは、当然といえば当然なのだ。

「なにか対策のようなものはあるのでしょうか」と高島氏に訊ねた。
「早いピッチの対策はしてきましたので、横浜のときよりはいい戦い方ができると思うんです。作戦としては、『スタートからダッシュだ。強い相手でも追い上げるのはしんどいんやから』と言ってあるんです。『勝ち負けもあるけど、準々決勝までよりもいい卓球をしよう』と」

1時間ほどダブルスのチェックをして、武田と川越の練習が終わった。
「じゃあ、行きましょうか」と高島氏が言った。
「お願いします」と私は頭を下げた。
高島氏からじっくりと話を聞くことになっていたのだ。

23.

練習会場をでた高島氏と私は、ロビーの一角にあるベンチに腰をおろした。そこは「込み入った話」をするには絶好の場所だと思えた。大会関係者が頻繁に行き交い、あちらこちらから雑談が聞こえてくる。適度のざわめきに包まれており、我々の話し声だけが浮き立つこともない。

「ちょっと座っていてください」と言って立ちあがった高島氏は、遅れて立った私を制止すると、大会関係者にサービスされているコーヒーを取りに行った。

昨日、練習会場で高島氏と言葉を交わした折に、私はインタビューを申し込んでいた。今大会の結果を踏まえながら、これまでの日本の強化策について話を聞かせてほしい、と。

ここ数年、それまでの長い低迷が嘘のように、日本卓球界は「銅メダルラッシュ」に沸いている。しかし、メダルの内実を注意深くみてみると、日本卓球協会の計画的かつ継続的な強化策の成果といえる部分は少なく、選手個人の「行動」によって形成されている面が大きいのではないか、という印象が私にはあった。

たとえば、松下浩二である。1993年にプロ選手になり、97年からは世界最高レベルといわれるブンデスリーガでプレーした。日本人選手にとって未踏の領域に次々と切り込んでゆく彼の姿によって刺激を受けた国内トップクラスの選手は枚挙にいとまがなく、プロ登録に踏み切る者、海外のリーグに渡る者が相次いだ。彼が国内の選手に促した意識改革こそ、最高の強化策だったのではないか。

たとえば、偉関晴光であり、羽佳純子であり、高田佳枝である。中国国家チームのメンバーだった彼らの日本への帰化がなければ、昨年の男子団体、今回の女子団体の銅メダルはなかったであろうし、メダルにこそ届かなかったが、小山ちれがいなければ、90年代の日本女子は相当に悲惨な結果がつづいていただろう。

そして今大会、ナショナルチームのスタッフではない高島氏が武田、川越を指導している光景が、これまでの日本卓球協会の「その場しのぎ」の対策を象徴しているように見えたのだ。

24.

ただ、日本の強化策にふれるということは、高島氏の苦い体験を暴くことにも等しい。断られても仕方がないと思いながら申し込んだのであるが、まったくの杞憂だった。

「いいですよ。いつにしましょうか」
高島氏は拍子抜けするほどあっさりと承諾してくれたのだ。そして、武田、川越の準決勝を翌日に控えたこの日の夜、高島氏が時間をさいてくれた。紙コップをふたつ手にした高島氏が戻ってきた。礼を述べ、コーヒーを一口すすると、気分が落ち着いた。私は質問をはじめた。まず、40ミリボールになってはじめての世界選手権を観戦した印象を聞いた。

「40ミリボールでこの大阪大会をやるということが決定されてから1年以上たつんですけれど、そのあいだ、ヨーロッパとか中国では、シドニー・オリンピックに出る以外の選手はどんどん40ミリでやっていたという情報がはいっているわけですね。国際大会も昨年の10月から40ミリでやっていました。

けれども、日本の場合は、昨年の12月の全日本選手権のときにはじめて40ミリでやったということですので、その対策は外国から比べるとやや出遅れたと。なおかつ、高校生においても今年の3月末までは38ミリでやっていたと。その影響が今回の試合のなかに見られたように思うんですね。

やっぱり選手にとって38ミリと40ミリというのは感覚的に大きく違うわけです。長年、筋肉とか神経に覚えこませた38ミリでの打法やテクニックを身体から抜け切らせたうえで、40ミリでのタイミングとか、スピードとか、回転とか、そういうものを完全にマスターするにはかなりの時間がかかるわけですね。それにともなう用具の改善というものも必要になりますから。

意識、無意識というのがありますけれども、意識をするのとですね、無意識でやれるのとでは、大きな差がでるわけですよ。無意識な気持ちでやれるようになれば一番いいわけですけど、日本の選手はかなりまだ意識をしながら、『40ミリのボールはこうやれば入るのかな、こういうふうに打てばいいのかな』というような感じでプレーをしていると。大げさな言い方をすればそんな印象を受けるわけです

25.

ところが、諸外国のトップクラスの選手を見ますと、38ミリのときにはボールが小さくて飛びすぎるので、ややもすると力をセーブしながらやっていたんじゃないか、40ミリになったお陰で、全力で振り切るとちょうどいい具合になったんじゃないかという感じで。

カウンターのブロックであるとか、カウンターのアタックであるとか、フォアもバックも全力で振り切っているプレーが随所に見られますね。まあ、スピードや回転は別にしまして、これは38ミリの卓球とちょっと違ったダイナミックさが出たと思うんです。

やはり40ミリになって、卓球のスタイルというものがずいぶん変わってきましたね。コートから下がるとスピードが落ちますから、38ミリ時代に中・後陣でプレーをしていた人が、前・中陣でプレーができるようになっています。

ボールが大きくなってスピードが落ちることで卓球は飽きられるんではないかという心配よりも、むしろ38ミリよりもダイナミックな卓球ができるという効果のほうが大きいような気がします。ですから、ボールが大きくなったということは、見る側からすればいい方向にいってるんではないかと思いますね。

選手のほうはどうかといいますと、回転がかかりにくいので、変化サービスは非常に出しずらい。レシーブミスが少なくなってくる。台上のもみ合いからラリー戦になっていきますから、当然ラリー回数が増えます。

準々決勝ぐらいから見ますと、4ゲームやると約1時間、フルセットになると1時間以上かかると。攻撃卓球でそれぐらい時間がかかるというふうになってきてますから、体力的にハードになっているということが、はっきりと言えるわけです。

26.

だから、選手はより一層、体力、筋力を高めていく必要がありますし、時代に乗り遅れないような新しいテクニック、スタイル、戦術を目指す必要があると思うわけです。テクニックというものからみると、一番大きく転換していかないといけないのは止める技ですね。ブロックでも、38ミリでは通用していたボールが全部狙い打ちされていますから、選手はコースとか、打球点とか、より神経を使わないといけないというふうに感じます。

スタイルからいくと、カット型は40ミリボールになれば有利じゃないかという声が多かったんですが、実際はその逆で、非常に不利になってますね。変化が少なくなって、カットの切れ味が悪くなったので、相手からフルスイングされると。しかも、40ミリはボールが大きいぶんだけ、横に大きく曲がるようになっていますから、より大きなフットワークが必要になってくるし、カットマンはこれから苦しくなるでしょう。

だからといって、カットマンにはもうチャンスがないという意味ではないですけど、やり方はいろいろあるんですけど、カットマンの概念というものは抜本的に考え直さないと駄目だと思いますね。たとえば、カット50%、攻撃50%というものをベースにして、相手のスタイルによってカットを多くしたりとか、攻撃をもっと増やしたりというような、よりオールラウンドに近いスタイルを目指す必要があると思います。

そんななかで、日本の卓球はこれからどうしていけばいいかということになりますと、ジュニアクラスからのトレーニングの仕方を、一から考え直さないといけないというふうに思います。いままでの卓球のトレーニングというのは、ランニングを多くしたりとか、どちらかというと下半身のトレーニングを重視していたんですね。しかし、40ミリボールになりますと腕力が必要になりますから、日本の選手はもっと上半身を鍛える必要があると思います」

27.

「今回、男子が……」と私が言いかけたところで、私たちのベンチのまえを3人の年配の男性が通りかかった。そのなかの白髪の男性が歩みを止め、高島氏に近寄ってきた。すっと立ちあがって会釈をした高島氏に、年配の男性はほとんど一方的に話しかけた。

──男子は残念だったけどね、女子のダブルスはよくやってくれましたね。
──女子もね、今度は日本の選手だけで勝ちたいとみんなで言ってたんですよ。
──まあ、ひとつ、今度は男子のほうもお願いしますよ。
大きな声が勝手に耳に飛びこんでくる。高島氏はさりげなく応じている。

男性が立ち去ったあとで、私は訊ねた。
「理事の方ですか」
「あのー、あの、常務理事ですね。先に歩いていかれた方もそうなんですけどね。うーん、なんていうかね……」
高島氏は言葉に詰まった。戸惑っているようだった。しばらくして、
「ああいう方が、ねっ」
と私に目配せをした。わかっただろう、という合図のようだった。

「なんか、まざまざと」
「でしょ。僕なんかがナショナルチームから引きましたでしょ。ああいう方が引かしたんですよ。で、いまになったらまた『お願いします』でしょ。そうはいかないですよ。だから結果をみてばっかりの話なんですよ。あの方なんか、僕が挨拶したって、なんも言うてくれなかった方なんですよ。それがこういう大会やってて、いろんな人から情報がはいるじゃないですか。ダブルスの2人、あれは陰で高島が教えとるというような情報がはいると、じゃあ、あれに監督やらしたらいいやないか、という形なんですよ。で、またいろんな事情あると辞めろとね。結果みて判断する人ばっかり上にいるもんですから」

「育てるプロセスはみてもらえないわけですね」
「まったく、まったくおっしゃるとおりです。残念なんですけれどね。そういう方が決定権を握ってるわけですね」

突然の「アクシデント」により、高島氏が総監督を辞めた真相の一端が垣間見えたような気がした。私は今大会についての質問をひとまず中断し、高島氏の「監督時代」に話を向けることにした。

28.

高島氏はナショナルチームの総監督をつとめるまえに、1993年と1995年の世界選手権で男子の監督をつとめた。ちょうどその時期は、男女ともワースト記録に終わった91年の千葉大会のあとという、日本の卓球界に訪れた未曾有の「氷河期」であった。
「そのような状況のなか、よく引き受けられましたね」と私は聞いた。

「僕の周りの人間は全部反対したんですよ。受けないほうがいい、と。千葉のワースト記録の次はもっとよくない、そんなんで受けてやれるのか、というふうにみんな反対したんですけどね。僕はずっと見ていて、伸び盛りの選手が多かったですしね、そこで逃げていてもしょうがないですから、やるだけのことはやろうと。僕の2回連続した監督時代の合宿、トレーニングは非常に厳しかったと思うんですよ。もう、どの選手に聞いても、『あのころは、よくもったな』というぐらい、すごくハードでした」

「監督の要請はいつごろ受けたのですか」
「その世界選手権がはじまる半年ぐらいまえです」
「それまでのあいだの強化というのは」
「もう、なんにもないです」

「各チームでやっていると。母体まかせですか」
「そうです。そういうのがずっと日本のやり方だったんです。しかも、12月の全日本選手権の結果をみて世界選手権の代表選手が決まるんですけれども、監督は選手を選ぶということができなかったんです。ですから、世界選手権のある4月ごろまでの3カ月ちょっとのあいだに、決められた選手をいかに強化するかというので長年やってきたわけですよ。だから非常につらかったわけですね」
無策の責任がまるで自分にあるかのように、高島氏は恥ずかしそうに答えた。

29.

85年から89年まで、国際卓球連盟会長をつとめた荻村伊知朗氏が主導権を握り、日本ナショナルチームが結成されたことがあった。松下浩二や渋谷浩など、当時の有望な若手選手を優先的に選抜し、遠征や合宿を繰りかえした。その日数は年間120日にもおよんだ。だが、実業団のコーチやヴェテラン選手から選手選考にたいするクレームが集中したという。

「荻村さんも改革しきれなかったみたいですね」
「そうですね。やっぱりやりきれなかったんですよね。日本の場合は、日本リーグとか、日学連とか、高体連とかのカテゴリーの力が非常に強いですから、ナショナルチームを統括してやるというのは難しいわけです」
「そのときは、どうしてナショナルチームがなくなったんですか」

「僕もそのころはまったくノータッチだったので、よくわからないんです。それはまあ、荻村さんと僕と、ちょっとやりあったんですよ。荻村さんっていうのはもちろん力を持っておられる方ですけれども、僕もいままで卓球をやってきて、あの方が100%すべてというものじゃないと思ったわけです。ディスカッションのなかで、違うことは違うとはっきり言いたかったもんですから、まあ言ったりしたんですね。

で、あの方の周りにいる人はみんなイエスマンなので、『高島はけしからん』となるわけです。それで8年ぐらい干されたんですよ。だから僕は、その93年までノータッチだったんですね。そのあいだに、いずれ出番がまわってきたときにいろいろやらないといけないので、自費で世界中まわって勉強してたんです」

30.

1952年、インドのボンベイ大会に初参加した日本は、4種目で優勝するという快挙を成し遂げた。以来、50年代および60年代の世界選手権では常に複数の金メダルを獲得し、「卓球ニッポン」の地位を築き上げた。70年代にはいると翳(かげ)りを帯びはじめたものの、それでも細々とながら1種目ずつ優勝をつづけてきた。

しかし、連綿としたそのタイトル獲得記録も、81年のノビサド大会でついに途切れた。地元での巻き返しを期した83年東京大会でも最高成績は女子団体の2位という結果に終わり、つづく85年のイエテボリ大会で男子団体がベスト4に食い込んで以降、メダルすら獲得できない状態に陥っていた。

「それで田中利明さんというビックネームの方がでてこられて、千葉の大会に臨もうということになったんです」
89年ドルトムント大会のあと、日本卓球協会は、1950年代に2度、男子シングルスの世界チャンピオンになった田中利明氏をかつぎ出し、強化の最高責任者に据える強化本部を発足させた。

「ところが、やっぱり協会の中でうまくいかなくて。戦略的には、そういう方を前にだして協力体制を得やすくするという狙いがあったと思うんですけど、中でもうまくいかなくて。名前の大きい人がなりますと、その補佐をする人が難しいみたいですね。田中さんも、世界の卓球がどうなってるかということをずっと研究されてきた方じゃなかったもんですから。で、結果が一番悪かったということで」

統一コリアの結成で注目を集めた91年の千葉大会で、日本は、男子団体がワースト記録の13位、女子団体がワーストタイの9位という、開催国としてこれ以上はない恥辱にまみれた。翌92年のバルセロナ・オリンピックでも日本勢は惨敗に終わった。

「後半の1年ぐらいですかね、田中利明さんに『試合の分析を手伝ってくれ』と言われて、僕がいろいろ情報を提供さしていただいていたもんですから、じゃあ次は高島にやらしたらどうかという話になったわけです。そのときには荻村さんも、そろそろいいだろう、と」

32.

そして、どん底にあった日本の指揮をとることになった。
「そのときに僕は男子の監督でしたけど、野平孝雄さんという方が総監督だったので、その方と相談しながらやったんです。で、まず底上げしないといけないんで。昔の日本が強かったころはやっぱり基本力がしっかりしてる方、多かったんですよね。ボールのスピード、回転、コースというものが世界で通用するレベルに達していたんですが、いまの選手はそういうベースとなるものがちょっと弱いもんで、練習みっちりやらないといけないと。

世界選手権まえの合宿は、ほんとに朝昼夜と厳しくやったんですよ。それでね、ベスト8に入ったわけです。だから、その3カ月なら3カ月で、やり方によっては選手をそこまで引きあげることはできるという自負があったわけです。それで、つづけてもう1回やって、まあベスト8の壁は破れませんでしたけども、順位決定で8位から6位と少しあがっていったんです。

だけど、日本のやり方だと、93年のときに監督をしたからといって、僕が95年もまた監督するかどうかわからないじゃないですか。そこで途切れるわけです。次の世界選手権まで、また途切れるわけです。その2年間はなにもしないんです。そりゃ、国際大会とかいろいろありますよ。いろんな母体の人がコーチになったりしますわね。でも、ナショナルチームじゃありませんから」

「選ばれるコーチや選手が大会のたびにころころ変わってしまって、どの選手をどう強化していくのかというビジョンが見えないということですね」
「そうです。それで、次の大会までの強化は母体でやるだけという繰り返しなんです。このやり方が、やっぱりいまになって、日本の層が薄くなってしまった原因という感じですね。卓球にたいしてヨーロッパもかなり気合いの入れ方が違ってきましたから」

32.

卓球が88年のソウル・オリンピックから正式種目に採用されたことにより、ヨーロッパ各国が選手強化に本腰を入れてきた。

とりわけ台頭著しかったのがスウェーデンの男子である。ワルドナー、パーソンという2人のスーパープレーヤーを擁し、89年、91年、93年と世界選手権の男子団体で3連覇を達成した。男子シングルスでも、89年ワルドナー、91年パーソン、93年にはフランスのガシアンと、ヨーロッパ勢のチャンピオンがつづいた。

ヨーロッパ勢の躍進は、日本のみならず、中国をもどん底におとしいれた。女子こそ王国の地位を保っていたが、89年に王座を転落した男子は91年には団体7位という史上最悪の結果に終わった。ペンホルダーの速攻という伝統のスタイルが、ヨーロッパ選手の両ハンドによるオールラウンドプレーに通用しなくなっていた。

だが、中国は国家チームの総力を結集して、すぐさま打開策に乗り出した。シェークハンド攻撃型の選手の育成を急ぎ、とりわけ才能豊かだった少年をスウェーデンに留学させるなどの英才教育を施した。それが孔令輝である。また、ペンホルダーの改革も怠らず、裏面打法という革新的なスタイルを取り入れた。それを体現したのが劉国梁である。そして95年、地元の天津大会で、7種目すべてを制覇するという偉業を達成した。

ここ半世紀の卓球史を彩ってきた双璧ともいえる中国と日本の距離は大きく隔たった。日本は、完全に取り残された。日本卓球協会がようやく重い腰をあげたのは、97年になってからである。

33.

1997年6月22日、日本卓球協会の理事会において、8年ぶりに結成されることになったナショナルチームに、元スウェーデン監督のソーレン・アレーンを招聘することが承認された。全日本チームに、はじめて外国人の監督を抜擢するという画期的な決断だった。

さらに、世界の卓球に精通した高島氏を総監督に据え、長期的かつ継続的に強化を図り、4年後の世界選手権、すなわち、いま開催されている大阪大会でのメダル獲得を目指すという、卓球ニッポン復活のための再建策が打ち出されたのである。

「はじめての外国人監督ということで、卓球協会に危機感みたいなものが多少でてきたんでしょうか」と私は聞いた。

「そうですね。卓球がどんどん進んできたにもかかわらず、新しい指導者っていうか、若手の優秀な指導者が日本には育っていないと。国内でどんどん勝たせるような指導者はいるけれども、世界の卓球は違うので、世界でも戦えるような勉強はこれからもっとさせようという思いが日本卓球協会の上層部にもあったんでしょうね。

日本も、ジュニアクラスには世界でも十分通用するぐらいの素質に恵まれた選手、たくさんいると思うんです。ですから僕は、そういう面ではぜんぜん劣等感を感じていないんですよ。絶対やれるという自信はあるんです。

でも、17、18歳ぐらいから、より世界の卓球に近づけるためには、やっぱり一番大事なのは指導者なんですよね。勉強でもそうで、問題集から何から全部あたえられて、『はい、あなた、ひとりで勉強しなさい』と言われたって、そう成績あがらないですよね。やっぱり優秀な先生に教わらないと成績あがっていかないですよね。

卓球もそれとおんなじで、自分ひとりでは自分の卓球わかりませんから。いい指導者との出会いがないと、なかなか強くなれないんですけど、そのへんが日本は非常に手薄なんです。

そういうなかで、ソーレン・アレーンを呼んでくれば、選手の強化だけではなく、若手の指導者の養成もできるんではないかという二面的な意味があったと思うんです。それで、ナショナルチームの合宿のあいだに、指導者セミナーをどんどん入れていきましたからね」

34.

ソーレン・アレーンが来日した7月下旬以降、およそ3カ月に1回、大学、高校など各層の指導者20人ほどを集めて、2泊3日の指導者向けの講習会を開いた。

その一方で、高島氏は、ナショナルチームの選手の選考基準、強化方法などについてソーレン・アレーンと議論を重ねていった。ソーレン・アレーンが、97年の世界選手権まえの日本チームの合宿にアドバイザーとして参加した際に、日本の強化策にたいして疑問を呈したからだった。

「日本はいろんな特殊な事情があるので、完全にスウェーデン方式ではできないということを理解してもらったんです」と高島氏は言った。

スウェーデンではすべての選手がクラブに所属しているため、スケジュールの調整に頭を悩ませることなく、ほぼ固定した6人から8人の選手で年間10回の合宿ができる。しかし、日本の場合には、実業団、大学、高校と「横割り」になっており、それぞれに大会をかかえているため、まとまって合宿をするのが難しく、またメンバーも流動的になりやすいという事情があった。

「しかし、日本方式ではソーレン・アレーンを呼んできた意味がないわけです。だから妥協案をだしあって、お互いにここまでだったら我慢できるというところを見いだして、3カ月かけて新しいやり方をつくりあげたんです」

年が明けた1998年1月28日、日本卓球協会からナショナルチームのメンバーと強化方針が発表された。

選手は男女ともAが3人、Bは4人、Cが5人、Dは18人の各グループに分けられ、A〜Cの指定選手の12人をナショナルチームメンバーとし、D指定選手を候補とした。技術力、戦術力、気力、体力、自己管理能力などを選考基準とし、選手には年間10回〜14回の強化合宿、および海外遠征、国際大会への参加を義務づけた。半分ほどしか参加できないのでは効果が薄いという理由からであり、条件を満たせない場合には、年に2回、ほかの選手との入れ替えを協議する。

メンバーには責任感とプライドを持たせるため、遠征や合宿にまつわる費用の自己負担分を大幅に減らしたうえ、世界ランキング50位以内の選手に勝った場合にはポイントをあたえ、一定のラインに達すると栄養費を支給することなどを盛り込んだのである。

35.

「発表された内容はすごくクリアで、選手の意欲をかきたてるものですね」
「そうなんです。海外試合に行くときには自己負担はなしだというようなこともそこで決めたんです。いままでは全部、世界選手権に行くのにも自己負担があったんですよ」
「それは、ちょっと……」

「それで、やる人たちのモチベーションを上げていくことも大切だということで、栄養費というような名目で、少しでも強化費のなかから組み入れたんです。そして選手も年2回入れ替えを考えるというようなことまできちんとつくったんです。それで日本卓球協会も、基本的にはこれでいいだろうという話だったんですね。

で、ソーレン・アレーンと一緒にいろんなところへ行って、こういうふうにやっていきますという方針を説明したわけです。この2001年が終わったときに結果がでなかったら、こういう責任の取り方をしますということも全部言いました。で、選手との信頼関係は非常にうまくいってたんです」

「当初は97年10月にメンバーを発表する予定だったと思うんですが、どうして大幅にずれ込んだのでしょうか」

「選手を選んでも合宿や遠征に参加できないということになっては意味がありませんし、ナショナルチームの練習と母体での練習が食い違っていては効果が上がりませんから、協力体制をつくってもらえるかどうかということを母体の監督、コーチと詰めたわけです。ところがね、選手選考で揉めるんです。たとえば、指導者のセミナーをしますね。ソーレン・アレーンが一生懸命セミナーをやるわけです。まあ、だいたいの部分はこれですよ」
と言って、高島氏は居眠りの真似をした。

「ところが、選手選考の話になったら、もう眼をぎんぎらぎんにさせて。その人たちは、もう母体の利益代表でしかないわけですよ。だから、ナショナルチームというものはどういうものであるかということを理解できておられないと思うんですね。

やっぱり日本全体で力を合わせて、連合艦隊でいくというのがナショナルチームなわけですけど、『母体の利益を無視したら、ナショナルチームなんかできませんよ』というような脅迫めいたことをばんばん言われるわけですよ。『やれるもんなら、やってみろ。母体なんか協力しない』と」

36.

そうした「内紛」が勃発したのが、1998年9月28日から10月4日にかけて、いま、私たちのいる大阪市中央体育館で開かれたアジア選手権のときだった。

「最終日の前日ぐらいにね、『反主流派が高島総監督兼女子監督を辞任させて、ソーレン・アレーン監督の権限を半減させる』というのが新聞にでたわけです。どうしてそういうのがでたかっていうと、その大会期間中にいろんなカテゴリーの方がある会議室を借りて、我々を辞めさせる算段をやったんですよ。そして、そのなかで決めたことを、日本卓球協会の強化本部長なり、専務理事に提出したというふうな記事が新聞にでたんです。そうしたら日本卓球協会は、2001年までソーレン、高島のラインでやらせるということを理事会で決定しておきながら、手のひらをぱっと」

そういう記事がでた影響はあるのだろうが、ナショナルチームのメンバーを発表して1年足らずという短期間に、どうしてそう簡単に寝返ったのか。発端は、アトランタ・オリンピック後に組織された「強化対策委員会」が、その内紛が起こる5カ月まえの98年5月、「強化対策本部」に格上げされたことにある、と高島氏は言った。

「ナショナルチームでやっている活動、やろうとしている計画というものが、末端まで行き届いていないから誤解がたくさんあると。で、誤解がないように、ナショナルチームの情報を広く日本国中の卓球界に知らしめるために、日本リーグ、日学連、高体連、そういうところのカテゴリーの長を強化本部の委員にして、連絡係にしてはどうかと。ナショナルチームはこういう活動をしていますということを伝えて、その方々が各カテゴリーに持ち帰って浸透させていただくというのが、日本の連絡システムとしては一番いいんだと。

『ああ、ごもっともです。それは、我々だって助かります』という話だったんです。ところが、実際にカテゴリーの方が強化本部の委員に選ばれたときに、『我々は連絡係ではない。強化本部の強化委員である。もの申す』というふうに言い出したんです。そこで対立がおきたわけです」

37.

「それはやはり母体の利益を優先したいということなんですか」

「そういうことです。ですから、ナショナルチームで選手選考すると、『この選手選んだら、なんでこの選手も選ばないんだ』と。試合にでていって結果悪かったら、『こんな選手、どうして選ぶのか』と。

たとえばITTF公認のオープン大会に、僕とソーレン・アレーンでジュニアの選手を連れていきました。世界のランキングの選手がでてきたときに、日本の選手はまだ若いですから、経験させるために連れていってますから、予選のトーナメントで負けます。そうすると大会終わるまで3日残ります。これから世界のトップが出てきます。

そのときにソーレン・アレーンは、トップクラスの選手の試合まえの練習に全部日本の選手を使ったわけです。毎日2時間以上、そういう選手と練習させたわけです。これが強化なんです。ソーレン・アレーンがやればできるわけです」

「コネクションがあるわけですね」

「ええ。だから、そういうことが強化として大事なんだということを、僕ら、もうほんとにたくさんの報告書を卓球協会にだしてるわけです。ところが、結果をみて『予選も通らない選手をどうして選考していくのか』と。これが優先されたわけです。

そのとき、そのときの結果で、ナショナルチームが4年間の計画通りやろうと思うことをことごとく攻撃されたんです。そういうのが溜まりに溜まって、『あの2人に任していたんではダメだ』という談合の社会、村社会で固まってしまったわけですよ」

選手をある程度絞込み、負けても、負けても使いつづけるという「太っ腹」な選手育成システムが、中国をはじめとする世界的な趨勢となっている。ましてや日本は、それまでの「その場しのぎ」のやり方では勝てなくなったからこそ、ソーレン・アレーンを呼び、高島氏に総監督就任を要請したのである。

「そのとき、強化本部長なり、協会側が『任せてみよう』とすぱっと言えないんですか」
「そう言えば終わりだったんです。ところが、理事会で決めておきながら、途中でその勢力に負けて、『もの申す』ほうにOKだしてしまったんです。だから、僕も真ん中にはいっていたために、ソーレンを守らないといけませんから、それをやっていたんですけれども、怪文書が流れてしまって……」

身に覚えのない「怪文書」が流布するという「事件」が、高島氏に決定的なダメージをあたえることになったのである。

38.

高島氏を誹謗、中傷する文書がでっちあげられた。悪意が、出回った。

「僕の無いことをいろいろ書かれて。これは卓球界が書いたわけではないんですけれども、僕らの知ってる卓球人がそういう情報を近畿大学のある組合に流して、そこからばっと出たわけです。高島っていうのはこんなことしてる、あんなことしてるっていう怪文書がでたんです。そのコピーが、各都道府県の卓球界の偉いところから各カテゴリーまで全部、ファックスと手紙で回ったんです。こんな人間をナショナルチームの総監督にしてる、と。

そうしたら、日本卓球協会は『ちょっと休養してほしい』と。僕がいくら『これは怪文書です。こんな事実はありません』と説明しても。それが事実かどうか確認もなにもしないで。さっき行った人たちもそうだったんですよ、ペケにしたんです」

アジア選手権が終わってすぐ、日本卓球協会から呼び出された高島氏は、強化本部長からこう言われたという。
「高島君、成績が悪かった。責任をとって休養するという文面を卓球協会にだしてくれないか」

だが、銀メダル1個、銅メダル3個を獲得した日本勢の成績は、近年ではもっともよい成績だった。男子シングルスで銀メダルをとった偉関晴光が「ナショナルチームの練習がよかった」と記者会見で述べたように、高島氏とソーレン・アレーンの強化体制の成果といえた。

高島氏は答えた。
「大会が終わったときに選手を集めて『このアジア選手権は、この十数年のなかで一番成績がよかった。よく頑張ってくれました』っておっしゃいましたよね。なのに、成績が悪いから休養しますって僕に一筆書けって言うんですか。それはおかしいでしょ。私はなんにも書きませんよ。休養してほしいんなら『休養しろ』と、卓球協会が命令すればいいじゃないですか。なんで私のほうから文書出さないといけないんですか」

39.

高島氏は「事」の成り行きを説明するために、勤務先である近畿大学の担当者のもとに出向いた。

「高島君、こんなのは気にしないでよろしい」
「気にしないでいいといったって、常務理事会に呼ばれて、『そんな事実はありません』と全部口頭で弁明したけれども、ぜんぜん聞き取ってくれなかったんです。大学のほうから『問題ない』という文書を日本卓球協会にだしてもらわないと、納得していただけないんです」

「しかし、個人のことについて『問題ない』という文書は、法人名義ではなかなか書けません」
「じゃあ、どうしたらいいですか」
「大学は、あなたにナショナルチームの総監督を受けてよいという許可をだしています。これは『問題ない』という意味です」

そのような事情を伝えても、日本卓球協会の態度は変わらなかった。
「で、まあ、うちの大学の、そういう文書を書いた人、もう辞めましたけどね。大学のほうも『もう心配するな』ということだったんですけど、卓球界にばっと広まってしまったものですから、その影響は大きいですね。まあ半分の人は信じますから。だから、変な眼で見られましたよ」
高島氏は苦々しく笑った。

「でも、まあ、そんなことがあっても、自分の生き方っていうのは、ぜんぜん変わらないわけですよ。どこへでも出ますし、どこへでも立ちますし。いろんな人が『大丈夫か』と心配してくれたんですけど、『大丈夫ですよ、どこへでも出ますよ』と。だって、事実じゃないわけですから。

そういう証明書のようなものを卓球協会に出してくれた人もいるんですけれども、そんなもの見向きもしないわけですよ。なにしろ、辞めさそうというほうに走ってますから。それで結局、『休養しろ』と言われたわけですね」

40.

解任が決まったその日、高島氏はソーレン・アレーンに事情を説明し、「外部からはできるだけサポートするが、これまでのようなサポートはできなくなった」と告げた。それを聞いたソーレン・アレーンは激怒したという。

「しょうがない。僕のことはいっさい気にしないで、自分のやりたいようにやりなさい、と言ったんですけれども……ちょうどそのアジア選手権のまえに、前原君が、休養っていうか、奥さんの身体の都合で『休ましてくれ』という形で引いてしまったわけですよ、突然」

「ヘッドコーチでしたよね」
「ヘッドコーチですね」
「肩書は残したままだったんですか」
「もう肩書もなにも、全部引いたんです」
「後任というか、代わりの方はつかなかったんですか」
「なにもつかなかった」
「それは……」

「それで僕は前原君に『いままで君が80%の力を注いでいたとしたら、30%でいい。奥さんの身体のことも大事やから、80%のうち50%は奥さんのほうにいっていい。でも、いまソーレンを支えてやらないと、できない。30%でいいからやってほしい』と言ったんですけど、できないと。だから、大変だったですね。ソーレン、ひとりぼっちになったんです。結局、アジア選手権が終わってからは、なんにもできなくなりましたね」

ソーレン・アレーンに、高島氏は「黒船になれ」と言ったという。世界的な卓球の流れを理解せず、相も変わらず国内事情を優先しつづける日本卓球界の閉鎖された扉をこじ開け、対外的なものに眼を向ける土壌を養ってほしいという願いからだった。しかし、前原氏が身を引き、高島氏自身も解任に追い込まれた。

針路を見失った「黒船」は、すべてのことが「裏のルール」で決まってゆく世界を漂うしかなかった。そして、99年アイントホーヘン大会の期間中、日本選手の試合がすべて終わった8月7日、スタッフと選手に「辞任」を告げた。

41.

「協会にはもっとまえに辞めると言ってたんですけれども、協会はそれをゆうてくれるなという話だったみたいで」
「当然、高島さんも前々から相談は受けてらしたんですよね」
「そうですね」
「辞めたほうがいいよ、と」

「いや、僕はね、辞めるなと言ったんです。我慢してくれと言ったんですよ。やりにくいだろうけれども、選手はソーレンを信頼している。もうちょっと我慢してくれと言ったんですけどね。ソーレンは『自分が我慢してやれる範囲だったらやるけれど、でもこれはちょっとやれない。高島、俺はカネで日本に来たんじゃない。日本が好きだから、日本のために来たんだ。でも、このままだと、俺は日本のために力をだすことはできない。だから辞める』と」

ふと、高島氏が切りだしてきた。
「これ、いま、はじめて言ったんですよ、外部の方に」
「えっ」
「いまの話を」
「そうなんですか」
「僕、いままで言ったことない。誰にも言っていない」
「よろしいんですか」
「ええ、かまいません。怪文書がでたときに『もっと言いなさい』と言われたんですけどね。言わなけりゃ言わないほど、『あいつは反論しないから、ほんとの話だ』という人がいるわけです。『嘘だったら、言うはずだ』と。まあ、そんな事情ですね」

私はうれしかった。だが、そこに「君だけに……」というニュアンスがこめられていたからでは、断じてない。自身に降りかかった理不尽な「暴挙」について、高島氏がほぼ初対面の私に吐き出せたということは、心のなかでなんらかの「ケリ」がつき、新たな一歩を踏み出す準備が整ったということを意味しているはずだった。それが、うれしかったのだ。

42.

「要するに、話をちょっと単純化してしまいますけど、数年先を見据えた強化を阻もうとするカテゴリーの力が強すぎて、協会側も押し切られたということですね」
「そうです、そうです。それを押し切った人、そのアジア選手権のミーティングに参加してた人たちが、いまのナショナルチームのコーチングスタッフにかなりはいってます」

「なんか、滞在費を別の強化費にあててほしいですね」
「そうでしょ」
「そう思いますよ。だって、武田さん、川越さんしか残っていないうえに、練習会場にコーチが来ないんだったら。今回、日本代表のコーチがものすごく多いのにびっくりしたんですよ。女子なんか選手11人にたいして、監督を含めると7人ですよ」

「ナショナルチームのコーチングスタッフという肩書がついてますけど、実際には選手の母体の帯同コーチなんです。いま一番日本がよくないところで、選手に気をつかうことは大事なんですけれども、選手の機嫌ばっかりとってるんです。選手を強化してるんではなくて、選手の機嫌をとって、自分が嫌われないようにして、選手がやりやすいようにしてやろうという考え方なんですよね」

「選手にシビアさを求めないというか」
「ええ。でも、やっぱり競技スポーツですからね、勝負の世界ですから、勝ちにいくというのが条件の一番にこないとダメなわけですよ。そのためには練習のメニューからなにから、よりハードなものにならないとおかしいわけですよね。それがね、そういうふうにさせられるコーチ陣ではないわけです」

あるとき、ナショナルチームの強化会議から帰ってきた小野誠治男子コーチが、「なにも議題がなかった。雑談だ」と言ったことがあったという。
「高島さんだったら、むちゃくちゃ怒ってますよ」と言う小野コーチを、高島氏は厳しく叱り飛ばした。

「僕でなくてもね、君も怒らないといけないんだ。交通費や宿泊費を出してもらって、日当も出してもらって、食事して。それは公(おおやけ)のカネを使ってやってるんだ。それで会議やって、なんの議題もない、雑談だとは、もってのほかだ。それだったらやらなかったらいいじゃないか。そのカネどっからでてるんだ。公費から出てるんだ。だまって帰ってきたのか」

43.

ものすごく失望させられる話だった。

「僕とソーレン・アレーンがやってたときだって、こっちからの質問にしたって、ある議題についてミーティングしたって、発言しないし、意見がない。合宿にも来てもらったりしたんですけど、ただ、もう見てるだけであって。そういう方が多かったですから、はっきり言って。

だから、どういう合宿になるかというのは、だいたいわかりますね。何時から何時までこういう練習しなさいというメニューは誰でもつくれますよ。それを選手に渡して、スタッフはどっか違うところでしゃべってたり、別室で腰をおろしてたり。合宿がですよ。

逆にいえば、選手は楽で、合宿に休養にいくようなもんだと。大会まえの調整練習だという名目で、朝2時間、昼から2時間やったら終わり。ミーティングもしない。トレーニングは自主トレだと。それで強くなれますか」

「そんなもんですか」
「そんなもんです。それで、僕が監督していたころの合宿で鍛えた選手が、トレーナーとして何人か参加しているわけですよ。その選手があきれてますよ。『我々がやった合宿からみたら何分の一です。高島さん、あんなのは合宿じゃないですよ』と。それで勝てるはずがない」

44.

高島氏の総監督解任にまつわる話が一段落したところで、私は途中でさえぎられる格好になった今大会の話題にふれた。

「今回、男子は13位というワーストタイ記録でした。各国のレベルが拮抗している現状では十分ありえる順位だと思うのですが、やはり前回3位という成績からすると残念な気がします。日本の男子についてどんな印象をお持ちになりましたか」

「日本の男子は、一番いい部分で、最高のレベルで考えると、十分チャンスあったと思うんです。イタリアだったら大丈夫じゃないか、その次のベルギーだったら大丈夫じゃないか、中国、スウェーデン以外だったらチャンスあるだろう、またベスト4ぐらいはいるんじゃないか、と考えてた方、多かったと思うんですよね。確かに、うまくいけば、それぐらいにいってもいいだけのものはあったと思うんですが、いつもいつも最高のコンディションで戦うというのは難しいですから。

それからオーダーの問題もありますね。たとえばイタリア戦で、1番と2番のオーダーが変わって、ヤン・ミンと松下浩二というような形になればまた違うでしょうし、モンデロはカット打ちがうまいとヨーロッパでも定評があるから、3番に松下浩二をいれて、1番、2番は偉関、田崎でいくというふうな形になれば、また違うと。これは結果論ですから、わかりませんけれども」

日本男子は決勝トーナメントの初戦で、前回大会で日本とともにベスト4にはいったイタリアと対戦した。日本は松下浩二、田崎俊雄を2点で起用、偉関晴光を3番の1点で使うというオーダーを組んだ。イタリアは、中国から移住したエースのヤン・ミン、世界ランキング101位のモンデロを2点で使い、3番は世界98位のピアセンティーニというオーダーだった。

トップで田崎がヤン・ミンに、2番で松下浩二がモンデロに敗れ、3番の偉関も試合中に背中を痛めるアクシデントに見舞われ、日本はストレート負けを喫した。

「もし僕が監督だったら」
そう前置きして、高島氏は言った。

「偉関はおそらくこれが最後の世界選手権ですから、日本のために完全燃焼したいという彼のモチベーションが最高潮に達するだろうという意味で、イタリア戦は偉関を2点で使います。チームの勢いをつけるために田崎も2点で使って、そして浩二は3番で、とにかく確実に点をとってくれというふうにオーダーを組みます、という話をある人にしてたんです。

そうしたら、ふらっとソーレン・アレーンが来ましてね、僕とまったくおなじことを言うんですよ。『自分も監督だったらそうした』と言うんで、まあ意見が一致したわけです。

45.

じゃあ、前原君のオーダーは間違ってたのかというと、これは間違ってはいないわけです。あれはあれでいいんです。結果的には3点とられたわけですけど、それはありえる話なんですね。もう1回おなじオーダーでやったら勝てるかもしれませんし、偉関を2点で使ったからといって勝てるかどうかもわからないんです。

だから、正解というものはないんですが、ナショナルチームで一緒にやっていたソーレン・アレーンもまったくおなじ考えだったというところに、僕の言ったオーダーは結果論だけじゃないという気もしたわけです。

というのは、オーダーというのは、最終的にはその監督の決断の仕方にかかってくるんですよね。最終的にどういうふうに決めるのか。いろんな情報やデータの分析という作業も当然あるんですが、そのうえに、やっぱり『勘』というものがあるんですよ。そのときの監督の勘ですね」

「勘といっても、それは、たとえば選手の顔色ひとつ見て状態を判断できるものを持ったうえでの勘ですよね」
「そうですね」

「その蓄積によって自然に働く勘を、最終的に信じるということですか」
「そうです。前原君も何通りか、僕らの言ってるオーダーも含めて考えたと思うんですけれども、最後には選手に相談して決めているケースが多いんですね。でも、僕は、オーダーっていうのは監督が決めるもので、選手に『どうする? こうする?』と聞いて決めるものではないと思っているんです。それがリーダーには必要かな、と。

前原君はきめが細かいし、ほんとうに一生懸命やっていると思うんですが、そのなかで選手に気を使いすぎてるんではないかな、という部分が見受けられるんです。そういった繊細さ、慎重さっていうのも大事なんですが、時には選手を強烈に引っぱっていく部分も出さないと、選手はもうひとつ気合いがはいらないという感じもするんです。これは彼を批判してるわけじゃなくて、監督という立場にはそういう大胆さも必要だと思うということですね」

「リーダーシップという部分ですね。比較するわけではないんですけど、中国の蔡総監督のオーラはものすごいですよね」
「そうですね。あの中国のそうそうたるメンバーを押さえられるものがなければ、あれを選手の機嫌をとってたんでは、やれないと思います」

46.

「オーダーということでいえば、初戦のハンガリー戦で、遊澤君か三田村君を起用する手はなかったですか」

「世界選手権だから絶対に負けたくない。特に日本でやるというプレッシャーがある。100%勝てるメンバーでいきたいというのはわかるんです。ただ、僕が世界選手権の監督をしたときは、ベンチに選んだ5人は全員出すから、と言ってメンバーを決めてるんです。それで、95年の世界選手権のときに、全日本チャンピオンだった今枝を外したんです」

95年天津大会のおよそ4ヵ月まえ、全日本選手権の男子シングルスで、弱冠20歳の愛知工業大学の今枝一郎が初優勝した。大学生として10年ぶりに全日本を制するという快挙を成し遂げ、天津大会でも若手のホープとして期待されていた。

「彼は大会のまえに腰を痛めたんです。エントリーのときには、まだ団体戦メンバーを選んでなかったので、ずいぶんチャンスを与えて、中国の合宿で中国選手と試合をさせたりしたんですけど、どうにも調子があがってこないんですよ。

でも、全日本チャンピオンですよね。試合には出さなくても、ベンチにさえ入れておけば、チャンピオンのプライドはあまり傷つかないんです。だから、選んでもどうってことはなかったのかもしれませんけど、選ばれた5人全員の責任で戦う、それがチーム戦だ、というのが僕の考え方なんです。

それで僕は今枝を部屋に呼んで、事情を説明して、『必ず君にはやれるチャンスがくる』と。彼は涙を流すほどでしたけど、最後には『個人戦で頑張ります』と言ってくれて。選手にとっては、腰が痛いのにベンチに入れられて、試合に出られないというほうがもっとつらいわけですよね。だから、選んだ5人は全員出すよ、と。それも調子の悪い者から出すからな、と」

「調子の悪い者からというのは……」
「いや、それは嘘ですよ。そう言われると、選手は調子をあげようと努力するでしょ。そんな、監督なんて調子のいい者から出すに決まってるんですから。まあ、そうやってハッパをかけるわけなんです。そして、僕は2回やって、2回とも全員出しました。出して、遊澤なんか負けました。チームも負けました。でも、チームが負けても、あまり傷つかないところで使うわけです。

やっぱりナショナルチームの監督には、戦いながらも、次の大会のために選手を育てるという義務があると思うんですよ。これは女子にも言えることで、岡崎(恵子)なんか、『あなたは出さない。ビデオを撮りなさい』と言われて入れられたそうです」

「そうなんですか」
「ええ。これは選手にとって失礼じゃないですか」
高島氏は憤慨するように言った。

47.

「もし、私がおなじ立場だったら、ベンチ入りを断りますね」
と私は言った。

「僕も断りますよ。それがね、個人戦がなければ別ですけど、彼女は個人戦もあるんです。なかなか練習できないでしょ。そんなことを選手にしてしまうのは、僕はもってのほかだと思っているわけです。だから遊澤にしても、偉関が背中を痛めたから出番が回ってきましたけれども、そうじゃなかったら出ていないと思いますよ」

「順位決定戦でも、主力の3人でいったと」
「ええ。おそらく出てないです。台湾にしたって、ポーランドにしたって、順位決定ではエースが出てないでしょ」

「そうですね。極端な話、9位でも16位でもどっちでもいいと私は思うんですが」
「おなじですよ。だからもう、目先の順位にばっかり気持ちがいってしまって、選手を育てること忘れてしまってるんです」

イタリアに敗れ、9位から16位までの順位決定戦に回った日本男子は、偉関晴光の代役として遊澤亮を起用した。だが、初戦のユーゴスラビアに敗れ、13位以下が確定したのが痛かったのか、若手の三田村宗明を団体戦のコートに送り出すことは、ついぞなかった。

ともにエースを欠場させたチャイニーズ・タイペイ、ポーランドに3−2で辛勝し、どうにかワースト記録の更新は免れた。しかし、ベスト16のなかで順位をつけること自体にさほどの意味を見いだせない私には、今後を見据えたとき、その代償のほうが大きいように思えた。

私は高島氏に確認した。
「初戦で使わないと、クレアンガのいるギリシャ戦では使いにくいですし、ましてや決勝トーナメントに進んでから、いきなり起用するのは難しいですよね。もし高島さんなら、ハンガリー戦でも、ギリシャ戦でも、遊澤君、三田村君を起用しましたか」

「僕は、団体メンバーに選んだ5人は5人とも実力は互角だから、絶対に全員出すと言い切って、実際にやってきましたから。出します、必ず出します。それが監督の配慮ですよ。だから僕は天津のときに今枝を選ばなかったんです。それで愛工大の学長先生に呼びだされて、ものすごく怒られました。『なんで全日本チャンピオンをベンチ入りさせないんだ』と。でも、選ばなかった。

それに、ベンチ入りした選手は全員出されるというように言われたら、やっぱりプレッシャーがかかりますから、必死になってコンディションを整えるはずなんですよね」

「緊張感を持続させるという面もありますよね」
「そうですね。次は自分が出されるんじゃないか、という気持ちを持つことは大事なんですよ」

48.

日本チームが今大会に臨むにあたり、私には気になったことがひとつあった。男女合同で合宿をしたのが、1月の5泊6日の1度きりだったことである。

混合ダブルスは、各国ともほかの種目にくらべて強化がおざなりになりがちであり、それゆえ「狙い目」の種目ともいえる。今回に限らないのだが、もう少し強化の時間を費やしてもいいように思えたのだ。かりに練習時間がさほどとれないにせよ、「2人の呼吸」次第で1プラス1の値が変化するダブルスにおいて、さらには総合力が試される団体戦を戦ううえでも、ともに合宿をする意味はけっして小さくないはずだ。

そんな素人の戯言を、私は高島氏にぶつけていた。「そうですね」とあいづちを打ちながら聞いていた高島氏が口を開いた。

「男女をセパレートしてやるというもの、それはそれでひとつのやり方だとは思うんです。それはそれで悪くはないんですが、僕がナショナルチームをやってるときは『連合艦隊』を組まなきゃいけないと。日本の全体の力を結集して、サポートしてくれる人はどんどん取り入れましょうという感じでやってましたからね」

そして、ふと思いついたように切りだした。
「あの、今大会のまえに松下浩二が電話してきて、『なんともならないんで、見てくれませんか』と言うんです」

1975年カルカッタ大会の男子シングルスで3位になり、全日本選手権でも3度優勝した高島氏は、日本が生んだ卓球史上屈指のカット型選手として知られ、「ミスター・カットマン」とも呼ばれる。おなじスタイルの松下浩二は、折にふれて高島氏のもとを訪れるようになっていた。

当然、このときも高島氏は了承した。
「でも、あなたひとりで来たって、僕はカット打ちできるわけじゃないから、トレーナーを連れてこなきゃできない。どうせやるんだったら、直前ミニ合宿という形をとって、若手の木方とか、倉嶋とか、三田村とか、代表メンバーでカットをがんがん打てるのを連れてきたらどうだ。それには前原君の許可がいるだろう。あなたからお願いすれば、うんと言うんじゃないか」
わかりました、と松下は答えたという。

49.

「ノーだったんですよ」と高島氏は言った。
「どうしてですか」
「わかりません。ノーなんです。ダメだって言われたって。浩二だけ来たんです。それで健勝苑の鬼頭、平とか増田とかに頼んで来てもらったんです。けど、彼らも社会人ですから、30分もがんがん打ちゃ、もう大変ですよね。それで東山高校の高校生を2人呼んで、3日間やったんですよ。

そうしたら、浩二は筋肉痛で2日間はメシが食えなかったらしいです。長年ラケット握ってるというのに、そのあいだに親指にマメができました。でも、僕は基礎的な練習しかしなかったんです。年齢的なものもあるし、怪我をさせてはいけないし、僕のなかではそんなにハードな練習をさせたつもりはなかったんですけど、練習不足だったのか、彼は2日間メシ食えなかったそうです。

そこまでやったんですけれども、やっぱりちょっと時間が足らなかったんです。錆びを落とすのが精一杯だった。磨きをかけるまでいかなかった。古い戦術を変えるところまでいけなかったんです」

大会直前にナショナルチームが大阪で合宿をしているときも、松下の状態を心配した小野コーチが電話をしてきたという。
「いや、どうも調子がよくないんですよ」

「午前と午後、ナショナルチームが練習しているところに、僕が乗り込んでいってやるわけにはいかない。だから、夜に、規定練習が終わってからフリーの時間に体育館が使えるんだったら、面倒みてやることはできる。セットアップできるんやったら、本人と相談してやりなさい」
高島氏はそう伝えた。

「できなかったんです。体育館が使えないと連絡がきて」
「貸切で使えるわけですよね」
「もちろん貸切です」
「それなのに、どうしてダメなんですか」
「夜は使えないんですって。それでレッスンできなかったんです」

50.

私はショックだった。高島氏が断られたことが、ではない。ナショナルチームの男子のスタッフが、自分たちで責任を持つという意志を表明したことは当然のことであるからだ。高島氏になんらの要請をするわけでも、突っぱねるわけでもなく、武田、川越の指導を黙認している女子のスタッフよりは、はるかに潔い姿勢に思えた。そのうえで13位だったのだ。

ショックだったのは、夜間には体育館が使えないということだった。夜も練習するべきだ、ということではない。よく、プロ野球の大打者が夜中に布団から這いだして素振りをしたというようなエピソードを聞くが、練習を終えたあとに、ふと、ひらめくものがあり、それを30分でもいいから試してみたいという「うずうずした」経験は、市民レベルの私にすらあったことだから、けっして珍しいことではないだろう。それに、「天啓」のような30分というのは、はかり知れないほどの時間に匹敵するようにも思える。

使うかどうかわからない体育館を自由に使用できるように準備しておくのは、「無駄」かもしれない。しかし、万が一に備える防災訓練のように、無駄になってもいいではないか、と私には思えた。卓球界のメインイベントを目前にした日本代表の合宿なのだ。ましてや今大会は開催国でもあるのだ。日本卓球協会は選手団のために、一見無駄な、しかし意味のある準備をするべきではなかったのか。その思いは、今日の孔令輝の練習を見たことで、より強固になっていた。

私は言った。
「今日、孔令輝がサムソノフとの試合のまえに、直前までものすごい練習をしていたんですよ。大丈夫か、疲れないか、って心配になるぐらいに。2回のチャンピオンでも、ここまで徹底してやっているんだな、っていうのがすごく印象的だったんです」

51.

「世界のトップは絶対に油断しないですね。それが世界選手権だと思っていますから。試合の直前だからとか、やりすぎると疲れるからとか、そんなものは超越していますからね。僕が監督していたころのミーティングでは、『この1ポイントとらせてくれるんだったら、この腕、次の日にちぎれてもかまわないという気持ちになるぐらい、この1本がほしいときがある。それが世界選手権だ』と、言って言って言い聞かせたんです。それが世界選手権なんですけれども、どうも甘い部分がありますね。

技術とか戦術みたいなものはあとから教えれば高まるんです。だから、そういうものを身につけるための土台となる精神面、体力面では、世界のトップと張り合えるものを持っているという姿が見えれば、誰しも『あれだけやっているんだから、2年後、3年後にはいけるんじゃないか』と思えるんです。日本の選手は非常によく練習すると。卓球のスタイルは泥臭いけど、ほんとうに一生懸命やってると。それが、なかなか見えにくいですよね」

「滞在している日本選手は、練習はしているんですか」
「交通局のところにも練習会場があるので、そこでやってるんでしょうね」
「ただ、ここには各国のトップ選手がそろっていますよね。そういった選手と練習ゲームをしたほうが、はるかに実のある練習になるんじゃないかという気もするんですけど。こんなに恵まれるチャンスなんて、そうそうないですよね」

「ないですね。やっぱり、これだけたくさんのスタッフがいるなかで、僕だったら、試合のまえに作戦を立てて、ここでどこの国の誰とどういう練習をするかと、全部スケジュールを考えますよ。いまのスタッフだって、外国のコーチ陣とも知り合いが多くて、いくらでもセットアップできるはずなんです。それが『選手が疲れてるから』というようなことで、よう組まないというんでは強くはなれないんですよ」

「たとえば、中国とかに謝礼渡して、練習ゲームをお願いして。そういうのが、ほんとうに意味のある強化費の使い方だと思うんですけど」
「そうなんです。それがナショナルチームと言われるチームじゃないでしょうかね。それをやらなかったら、ただの母体代表で終わってしまいますよね」

52.

問題は今後の日本の強化策だった。ジュニアの男子は、昨年コーチ契約を結んだマリオ・アミズッチが指導していた。長年ブンデスリーガのデュッセルドルフのコーチをつとめ、サムソノフを育て上げた辣腕指導者である。しかし、それ以外の強化のビジョンは、まったく見えてはこない。強化体制の確立は緊急の課題といえた。

「今大会が終わった翌日には新体制の発表があってもいいと思うんですが」
「まだ決まらないんじゃないですか。しばらくは決まらないまま、ずるずるいくんじゃないですか」

「空白の期間はなるべく短くしないといけないと思うんですよね」
「おっしゃるとおり。こういう惨敗をしたあとですから、終わった次の日には、こういう体制でやると記者発表するのが競技スポーツの常識ですよね」

「少なくとも、水面下での交渉は終わっていないといけないですよね」
「そうです。それをね、先手を打ってできる人がいないもんですから」

「男子が13位という時点で、強化本部長は辞任するのが筋だと思うんです。それがメダル2つということによって、うやむやにされるんじゃないかという危機感があるんですけど」

「たぶんそうなるんじゃないですか。それはね、やっぱりアマチュアだからなんですよ。責任の所在がはっきりしないですよね。ソーレン・アレーンは辞めるときに、『僕らが責任とるより、まず強化本部長が責任とるべきだ』ということを言ってるんです。だから、いまの日本の社会とおなじで、リーダーシップとれない、責任とれない。すべてにやっぱり言えることでして」

「やっぱり世の中というのが全部でちゃうんですね」
「全部そうですね。学校の教育の仕方だって、おとなしくて勉強できて、いらんことしないというのが『いい子』だと。エネルギーあまってる子で、学校のガラスをばーんと割ってしまうような子は『悪い子』だと。ガラスなんか入れ替えたら、さらになる話やないですか。それぐらいのエネルギーのある子をうまく育てていこうというのじゃなくて、常に欠点指摘して、おとなしくしていろというやり方ですから。そういう世の中の風潮というのが、すべてに出てきますね。

たとえば日本卓球協会は、40ミリ対策のビデオをつくって、全国の指導者にインフォメーションしていくという仕事はあると思うんですが、それをやらないんです。だから、みんな手探りでやってて、どうやっていいかわからないというようなことで、最近、僕のところに、「40ミリの指導はどうしたらいいんでしょうか」という問い合わせがすごく多いんですよ。いま、僕は40ミリのビデオをつくってるんですけど、ほんとうなら、日本卓球協会が率先してやらないといけない仕事なんですよね」

53.

私はきわめて可能性の薄そうな質問をした。
「もし、再び、ナショナルチームの監督なりの要請があった場合、高島さんの復帰はございますか」
「ありません」

「この人なら安心してみてられるという適任者はいますか」
「どうでしょうね。でも、監督とか、ヘッドコーチとか、なりたい人いっぱいいますよ。JAPANのユニフォームを着たい人はむちゃくちゃいるんです」
「そうでしょうね」

「そりゃあね、僕は絶対やりませんって言いましたけど、もう人事権からなにからお前に全部任せると。5年間なら5年間、もういっさい言わない、全部一筆書いて、お前に任せるとなったらね、そりゃ、やりますよ。世界中からトップクラスのコーチを呼んで。でもね、現実的に無理です。そこまでのコンセンサスは得られないですね」

「女子の銅メダルは立派だとは思いますが、高田佳枝さんの帰化がなければ難しかったと思います。その高田さんにせよ、羽佳さんにせよ、年齢的に今回かぎりの可能性は高いですよね」

「結局ね、そんなもう夢のない話ばっかりになるじゃないですか。ところがね、日本には優秀な選手がいっぱいいますよ。やれる選手はいっぱいいます。ただ、指導者が少ないだけです。指導者がいたとしても、その指導者に選手をあずけるだけの入れ物がないだけです。だから、そこに行けばレッスンができるという入れ物をつくればいいんです」

「それは、今後、高島さんがおやりになろうとしてることなんですね」
「まだ、はっきりとは言えないんですが。もう、それしかないと。いままでのような一時的な駆け込み寺のような役割ではありません。あずかった選手をちゃんとした戦場にのせて、年間の実績を全部データにしてやっていこうと。武田、川越も、最初のうちは半信半疑で指導を受けていましたからね」

高島氏の携帯電話が鳴った。それは、このインタビューがはじまってから、3度目か4度目だった。高島氏は、時に中座しながらも、すぐに戻ってきては「大丈夫です。全然問題ありません」と話をつづけてくれたのだった。これ以上、引き伸ばすわけにはいかなかった。

電話を切った高島氏に、私は礼を述べた。
「明日、見ていってやってください」
そう言い残して、高島氏は歩み去っていった。

54.

プレスセンターに戻った私は、椅子に深く腰をおろした。長いインタビューを終えた疲労感がどっと押し寄せてきた。頭のなかでは高島氏の言葉が駆け巡っていた。

高島氏は饒舌すぎるほどに饒舌だった。それゆえ、なかには度を越してしまったのではないかと思えた主張もあった。憶測にすぎないのではないかと思われる発言もなかったとは言えない。だが、それでもなお、私は高島氏の「物語」を深く受け入れようとしていた。本来であれば試合会場で指揮をとっていた男の、組織的な圧力によって葬られた男の、後ろ楯となるべき協会に裏切られた男の、その内面に、感情のうねりを含めて起こった「事実」であるからだ。

それにしても──。
私にはどうしても腑に落ちないことがあった。ナショナルチームの総監督という立場にある人物が「解任」される事態が発生したというのに、多くの事実は明るみにされぬまま、強化本部をはじめとする協会の責任問題もさほど論議されぬまま、何事もなかったかのように済まされてきたことである。

かりに、おなじような事態がサッカーに生じたとしたら、と私は想像してみた。マスコミは容赦なく事実関係を追及し、ほとんどすべての背景を白日の下にさらすだろう。ファンからの批判も殺到するに違いない。国内スポーツのなかでは厳しい眼を向けられるがゆえ、近年の日本のサッカーは著しい成長を遂げている。

幸か不幸か、卓球はぬるま湯のなかで生き長らえてこられた。どのような理不尽な事態を引き起こそうと、どのような惨敗を喫しようと、バッシングという「魔の手」を逃れられてきた。それは、卓球というスポーツが精神的なアマチュアの域を越えていないからである。

振り返ってみて、私にも思い当たる節はあった。83年の東京大会で女子団体の銀メダルを目撃したとき、よくやったという思いよりも、金メダルを逃したことに、歴然とした中国との実力差に、落胆したことを覚えている。その私が14年後、松下浩二、渋谷浩の銅メダルに心を弾ませていた……。

銀も銅も素晴らしい成績ではある。しかし、いま私は、いつのまにか金メダルを渇望する人間からメダルを期待する人間に変わっていたことに気づき、哀しくなった。そして、報道などを見るかぎり、私のような人間はけっして少なくはないようなのだ。

武田明子、川越真由は、孫晋、楊影に勝てるだろうか。私のようなファンのいる国の代表が、金メダルを逃した選手を「戦犯」扱いするファンに囲まれた中国の代表に勝てるだろうか。

悔しいが、私はひとつの事実を認めざるを得なかった。我々は本気で勝とうとはしてこなかったのだ。勝てないとすれば、それは「日本代表」ではなく、日本の卓球界なのだ。

55.

降り立った朝潮橋駅のホームから大阪市中央体育館に向かう人の数が、昨日までの3日間とは比較にならないほど多い。大会最終日のこの日に残されたのは、女子ダブルスの準決勝と決勝、男子シングルスの決勝の4試合だった。試合会場の中央に据えられた1台の卓球台で順番に試合をしてゆくのだが、衆目を集めるそのセンターコートに姿をあらわすのは、ひとつのペアを除くと、すべて中国の選手である。

試合日程に恵まれたとはいえ、最終日までファンの関心をつなぎとめた武田明子、川越真由によって、日本は開催国のメンツを辛うじて保つことができたのだと、あらためて思い至る。

彼女たちを目当てにやってくるファンへのサービスなのだろう。試合開始まえ、観客席のオーロラビジョンと会場内に設けられたテレビでは、武田、川越がクロアチアのペアと対戦した準々決勝の映像が流された。メダルを確定させた4日まえの一戦を私は初めて眼にした。

ヨーロッパの女子選手のトップにいる世界ランキング7位のボロスと、長身のアガノビッチが繰りだすパワードライブにたいし、日本ペアの前陣でのカウンタースマッシュが小気味よく決まる。なにより「失点」のパターンが悪くない。ミスをした場合でも狙いまでは狂わされていなかったし、打ち抜かれるのは相手のテクニックが上回った場合がほとんどだった。翻弄されていないから、混乱することがない。自分たちの間合いで戦い通せたことが、メダル獲得の最大の要因であるように思えた。

11時45分開始予定の試合に向けて、武田と川越は10時から練習をはじめた。これまでそうしてきたように、それぞれが男子のトレーナーを相手に「切り替え」の練習をこなしている。

切り替えといっても、彼女たちのコンビネーション練習だけにとどまらず、次第に「攻守の転換」をも含んだものへと様相を変えてゆく。彼女たちの返球が甘ければ、トレーナーたちは容赦しない。強烈なドライブやスマッシュを彼女たちのコートに叩き込む。一見すると、どちらの練習かわからないほどだ。

56.

気のせいか、武田の顔色が青白く見える。高島氏の指示にうなずきはするのだが、氏の言葉が素通りしているのではないかと思えるほど、その反応は微かだ。1本のラリーが途切れるごとに、いま打球したのとおなじフォームの素振りをしたり、ギャラリーを眺めまわしたりしている。そんな状態を見越してか、30分ほど経ったところで、高島氏は「武田、あとは自分で好きな練習したらええよ」と声をかけた。

一方の川越の動きは精力的だ。相変わらず腰をサポートする黒いベルトをつけてはいるが、フットワークを存分に使って強打していく練習を繰り返している。ただ、高島氏の眼には気がはやりすぎていると映ったのかもしれない。
「ブロックの練習したらええんちゃうか。疲れてしまうで」

そんな武田と川越の練習風景を、隣接したコートでボールを打ちはじめた孫晋と楊影が、時折じっと見つめる。ほとんど気にもとめていないようだった昨日とは対照的だし、笑みとおゃべりの絶えなかった孫晋が「闘う表情」に変貌しているのもまた対照的だ。その姿を見て、高島氏が話していたことを思い出した。
「おそらく中国のペアも、このまえとはちょっと勝手が違うぞ、と感じてると思いますよ」

1月のグランドファイナルの決勝で孫晋、楊影と対戦したとき、武田、川越はまだ男子のトレーナーとは本格的な練習をはじめていなかった。それから4カ月、当初はまったく追いつかなかった男子のボールを苦にしなくなっている。はたして中国のペアは、いまの彼女たちを見て、あのときのようにまともに胸を貸すのか、それともなんらかの作戦を練ってくるのか。

練習をはじめて40分ほど経ったところで、武田と川越が休憩した。ギャラリーに戻ってきた彼女たちは、床に腰をおろすと、ペットボトルの水を口に含んだ。高島氏はこれまで何度も繰り返してきたであろうことを言い聞かせた。

「はいる、はいらんは別にして、相手の早さにたいするセットはできてるんやからな」
「とにかくスタートから先行逃げ切りや。強い相手だって、逆転するのはしんどいんやから」
「5本とったら、5本とられる。最後は必ず接戦になるという気持ちを忘れんように」

57.

ひと通り戦術的な話を終えた高島氏は、おどけるようにつけ加えた。
「すごいでぇ、1台だけやからなぁ」
「えー」
川越が声をあげる。

私は驚いた。川越は緊張しやすいタイプだと高島氏から聞いていたからだ。私の表情になにかしらの変化があったのかもしれない。私のほうを向いた高島氏は、しかし、その場の誰に向けてというわけでもなく、
「ちょっとはプレッシャーかけとかんと、試合会場にはいったとたんに舞い上がったら困りますんでね」
と言って笑った。

「でも、幸せやで。みんな見てくれるんやからな。最終日に試合できるだけで幸せや」
ポジティブな面をさりげなく口にした高島氏は、「ねぇ」と、私に同意を求めるように問いかけた。

世界選手権でプレーすることなど夢想だにしたことがない私は一瞬戸惑ったが、考えるまでもなく、卓球界における最高峰の大会の最終日に試合コートに立つことは、あらゆる卓球選手の憧れであろうことは容易に想像できた。ましてや日本での開催だ。ましてや彼女たちは大阪で生まれ育ったのだ。プレーヤーとしての彼女たちにとって、これ以上のとびっきりの桧舞台を想像することのほうが難しかった。

彼女たちは再開した練習を30分ほどで切り上げた。試合会場に向かうまえに、ナショナルチームのメンタルサポーターと言葉を交わしている。高島氏は彼女たちの練習相手をつとめてくれた男子のトレーナーたちに感謝の言葉をかけている。すべての支度は整った。私は観客席に向かった。

58.

最初に入場してきたのは中国のペアだった。私はベンチコーチに注目した。やはり蔡振華総監督ではなかった。中国はこの一戦に勝てば全7種目制覇が決まる。ひょっとすると蔡総監督が「最後」を締めくくるではないかとも思ったのだが、期待は外れ、予想は当たった。

試合まえの孫晋、楊影の練習は、サムソノフ戦まえの孔令輝とも、キム・ユンミ戦まえの林菱とも違って、身体をほぐす程度の穏やかなものだったこともあるが、そんな裏づけを必要とするまでもなく、大会まえから予想できたことともいえた。

今大会直前に発売された専門誌「卓球王国」の2001年6月号では、《本誌独占取材! 中国国家チームの密封訓練》と題した特集を組み、日本のカメラが初めて中国国家チームの直前合宿に潜入したことを伝えていた。人脈の広い同誌スタッフの尽力による貴重な企画ではあることは間違いないのだが、その一方で、この時期にこのような企画が成立したことに、私は哀しみも覚えた。

世界選手権に向けた仕上げを行う重要な合宿である。ましてや昨年のマレーシア大会で中国は男子団体のタイトルを逃しているのだ。かりに私が蔡総監督とおなじ立場にあったとしたら、スウェーデンや韓国のジャーナリストとどれほど懇意にしていようとも、カメラのはいる取材は断じて許可しないだろう。練習風景さえのぞかせないかもしれない。

同誌には、女子団体戦のライバルとして日本も名を連ねていたとあるが、ほんとうにライバルと目されているのだとしたら、その国のメディアを招き入れるというリスクは回避するだろうと思えたからだ。

59.

少し遅れて、近藤欽司監督を先頭に、武田と川越がベンチにはいった。試合まえの2分間の練習を終え、予定から3分ほど遅れて、孫晋のサービス、川越のレシーブで試合がはじまった。

出足は淡々と進み、3−2、5−5と互角の滑りだしで、楊影のサービスを迎えた。中国伝統のペンホルダー表ソフトというスタイルを受け継ぐ楊影の巧みな投げ上げサービスにたいし、武田のレシーブに少し迷いが見受けられ、6−9とリードされる。

しかし、武田も、得意としている「しゃがみ込みサービス」を使った。強烈な下回転がかかっていたのだろう、孫晋がレシーブを2度ネットに引っかけた。川越のバックハンドなども決まり、一気に5本連取して11−9とリードを奪う。さらに、2巡目の孫晋のサービスを、川越が狙いすましたようなバックフリックを鮮やかに決めた。3点のリードだ。

川越はもう一度、おなじレシーブを見舞った。決まってもおかしくはない巧みなレシーブだ。ところが、楊影は苦しい体勢で返球した。武田がタイミングを合わせそこなった。ここから日本ペアのミスがつづいた。孫晋のドライブも絶妙のコースに決まり、中国が6本を連取した。「5本とったら、5本とられる」という高島氏の言葉が脳裏に蘇る。

川越が、上回転系に切り替えたサービスでエースを奪う。ラリー戦でも、相手の逆をついたバックハンドを決めて14−15と追いすがるものの、次のサービスをネットに引っかけた。ここで、先ほど投げ上げサービスを使った楊影が、素早いモーションから短いトスのサービスを出した。不意をつかれたのか、武田のレシーブがオーバーした。

ここから中国ペアにたたみかけられた。日本ペアは15−21で第1ゲームを失った。そして、第2ゲーム、第3ゲームとも、日本ペアはついに1度もリードを奪えなかった。

中国ペアは第2ゲームから戦術を変えてきた。ピッチの勝負では、日本のペアが押し込む局面のほうが多かったためか、コース取りを最優先にしてきたのだ。緩いボールをまじえて、卓球台の両サイドに広く深くボールを送り、日本ペアを大きく揺さぶる作戦を徹底していた。まともに胸を貸すことを避けたのだ。それは中国が、武田と川越に「地力」がついたことを認めたことの証明のようにも思えた。

60.

試合後の記者会見には、武田、川越と、近藤監督が臨んでいた。記者のひとりが、川越の発言を引いてこんな質問をした。
「チャンスはあったと思うということですが、勝敗がわかれたのは、技術的にはどの部分なんですか」
淡々と進む質疑応答をぼんやりと聞いていた私は、奇妙な引っかかりを覚えた。勝負の分岐点といえるほどのものはないように思えたからだ。

もし、あの1本がはいていたら、流れが変わったかもしれない、と思える場面がなかったわけではないが、それには幾重にも「もし」を積み上げなければならない。彼女たちの敗因は実力差によるものだった。変えられた戦術を、さらに覆す術を持ちあわせていなかった。すなわち、中国ペアより弱かったのだ。細かな「原因」を見つけ出し、強引に勝負を「分析」するのは、かえって彼女たちに失礼であるような気もした。

ただ、ひとつだけ「もし」があるとすれば、それは試合日程だった。もし、3日間ものブランクが無ければ、たとえば準々決勝の翌日に試合があったならば、とは考えてみたい気がした。武田から良いときのイメージが薄れているように見えたからだ。第2ゲームの8−12の場面で、バックサイドに来た孫晋のレシーブを、彼女は3本つづけてバックハンドをミスした。良いイメージを持っているときの彼女からは考えられないミスだった。

良いイメージがあるときには、打球体勢にはいった段階で、打球の軌道が「見える」のだが、いったんそのイメージが失われてしまうと、修復するのは極めて難しい。とくに、彼女のように卓球台の近くに位置してボールを叩いていくタイプは、イメージがなによりも大切になることがある。皮肉にも、それが最終日に試合をすることの幸福の代償のように思えた。

61.

14日間におよぶ大会が閉幕した日の夜、各国の選手やコーチをはじめ審判員、大会運営スタッフらの慰労と交流を目的とした「フェアウェル・パーティー」が大阪市内のホテルで催された。ひとつのフロアを借りきってしつらえた立食形式のパーティー会場には目算でははかれないほど大勢の関係者が詰めかけ、酒を酌み交わし、料理に舌鼓を打ち、談笑していた。

濃紺のブレザーをまとった日本選手団は、会場の一隅のいくつかのテーブルを取り囲んでいた。その一団から少し離れたところにある椅子に、私は松下浩二と並んで腰をおろした。

「40ミリボールの影響がでましたか」
私がそう聞くと、彼はなんともやりきれないという表情になった。
40ミリボールに変わったのは全員共通である。しかし、ルールは誰にでも平等な影響を与えるわけではない。とりわけ、回転量の減ったため、変化を武器とするカットマンは苦しくなった。

国際卓球連盟のアダム・シャララ会長も大会総括の記者会見において、「今回のルール改正によって、中国の劉国梁や日本の松下浩二が不利になったのではないかと思う」と名指しで公言したほどだ。その会長の発言を伝えると、松下は声をあげて笑った。プロである以上、ルール改正が敗因だとは口が裂けても言えない彼の、精一杯の代弁のように思えた。

話をつづけようとすると、1993年世界チャンピオンのガシアンがやって来た。松下の隣りに座り、英語で話しかける。松下も英語で言葉を返す。外国語が苦手な私には会話の詳しい内容まではわからないのだが、ガシアンの英語のほうが滑らかなのに、松下の英語のほうが耳になじみやすいのがおかしかった。

ひとしきり会話を交わしたガシアンが去っていったあと、再び質問をした。
「団体の予選リーグで、遊澤君か三田村君を起用するという話はなかったんですか」
「まったく、なかったですね。絶対に勝たなきゃいけないですから」
彼は「まったく」に力を込めて言い切った。

私はうれしかった。私の意見とは違うし、高島氏の意見とも違っていたが、それでもうれしかった。彼は選手だからだ。日本の浮沈を託された代表選手であるからだ。遊澤や三田村を起用するということは、彼にとってみれば、自分が外されるかもしれないということである。団体メンバーに選ばれた選手なら、自分が出場してポイントを奪いたいと意気込むのは当然であるし、逆にそう思わないのであれば、代表選手としての資質に疑問がわく。

62.

突然、「あのぉ」と声をかけられた。見ると、大会スタッフであることを示すブレザーを着た年配の女性が数人いる。松下と一緒に記念撮影をしたいらしい。私はカメラを受け取り、シャッターを押した。撮り終わると、彼は一人ひとりと握手に応じた。「まぁ」「ほんとに」などという甲高い声をあげた女性たちは満面に笑みをたたえ、礼を述べ、激励した。

彼女たちが去ったあと、椅子に座り直し、再び質問をはじめようとした。すると、また別の女性スタッフたちがやって来て、写真撮影を頼まれた。私は同様に、臨時のカメラマンになった。そのような一連の様子を見ていたのか、カメラを手にした女性スタッフらが次々とやって来るのだ。

撮る。座り直す。質問をはじめようとすると、また頼まれる。とてもインタビューがつづけられそうにはなく、私は「また今度、お願いします」と言ってきりあげた。今大会ではけっして活躍したとはいえない彼だが、やはり人気には絶大なものがる。そんな光景を見ながら、シドニー・オリンピック直後、彼に宛てた「手紙」の存在を思い出した。

彼はシドニー・オリンピックを四半世紀におよぶ選手生活の「集大成」と位置づけ、メダルを狙っていた。ところが、渋谷浩と組んだダブルスで予選リーグ敗退という不本意な結果に終わり、シングルスでも91年世界チャンピオンのパーソンとぶつかり、前回のアトランタとおなじベスト16にとどまった。

集大成とした舞台で納得のいく成績を残せなかった彼の落胆は相当に激しいのではないか。そう思ったことに加え、「おそらく日の丸をつけてプレーするのは、大阪の世界選手権が最後になると思うんですけどね」と、かつて彼から聞いたことがあったこともあり、リフレッシュのための休養を勧める文章をしたためたのだ。

理由はある。98〜99年のシーズン、ブンデスリーガ1部のデュッセルドルフでプレーしていた彼にそのニュースが飛び込んできたのは、99年3月のことだ。翌4月にユーゴスラビアで開催される予定の世界選手権が、紛争の激化によって中止され、同年8月にオランダで個人戦が、2000年2月にマレーシアで団体戦が、それぞれ開催されることになったのだ。

63.

8月の世界選手権。北半球における秋口から冬を経て春の終わりにかけて行われるヨーロッパのプロスポーツにおいて、8月は日本のプロ野球でいえば「オープン戦」の時期にあたる。すなわち、シーズン開幕に向けて徐々にコンディションを整えていく時期なのだ。

シーズンがはじまってしまえば、休みらしい休みはほとんどなく、練習、移動、試合による過密日程を余儀なくされるため、選手たちはシーズン終了後の夏場の1ヵ月ほどを休養にあてるのが慣例になっている。休養を前提とした過密日程と言い換えてもよい。

「僕のオフはなくなります。でも、長年やっているヨーロッパの選手はもっと苦しいでしょう」と彼が予想した通り、8月の個人戦では5種目すべての決勝が中国勢の同士討ちになった。

彼は休む間もなく、99〜00年のシーズンへと突入した。そのあいだ、00年2月の団体戦では日本男子団体の銅メダル獲得の立役者となり、所属チームのデュッセルドルフにおいてヨーロッパ・チャンピオンズリーグでの優勝に貢献した。

充実したシーズンを終えたにもかかわらず、彼はまたもや休養らしい休養をとることなく、シドニーに向けた準備をはじめなければならなかった。つまり、98年夏から酷使しつづけてきた心身を癒す時間がないままに、シドニー・オリンピックに臨んだのだ。

日本にもオフがないとはいえ、ブンデスリーガとは比較にならないほど試合日程はゆるやかである。彼はそういった国で生まれ育ち、長年プレーしてきた。環境の激変による疲労が、知らず知らずのうちに蓄積されているはずだ。だから大阪での世界選手権を「最後の晴れ舞台」と考え、掉尾を飾るにふさわしい成績を収めたいのであれば、少し休養が必要なのではないか。そんな思いから宛てた手紙だった。

だが、記念撮影攻めにあう彼の姿を眺めながら、的外れの手紙を送ってしまったのかもしれないという気にさせられたのである。大阪大会で活躍するためには休養が必要だという考えが誤りだと思ったからではない。むしろ、それは「的中」したと言ってもよい。ただ、彼は自分の最後の舞台とおなじか、それ以上に大切な「使命」を抱えているのだな、と感じさせられたのだ。

彼は走りつづけなければならないのだろう。そして、おそらく特定の大会を「総決算」の舞台とすることはないはずだと思えた。

64.

パーティーが終わりに近づいたころ、私はなかば割り込むようにして偉関晴光に声をかけた。彼の周りにも次々と人がやって来ては、ほとんど途切れることがなかったからだ。しかし、彼にはどうしても聞いておきたいことがあった。

「中国はなぜこんなに強いんでしょうか。日本との違いはなんだと思いますか」
「やっぱり、一番違うのは量だね。練習量。中国は1日6時間やる。日本は4時間ぐらい。まあ、中国は別格だよ」

「別格ですか」
「うん。それに質も違う。中国は強い選手が集まってやるけど、日本はバラバラ。もっと強い選手が集まって練習したほうがいいと思うね」

「ナショナルチームの合宿を増やしたほうがいいということですか」
「そうだね」
「ソーレン・アレーン監督のころは、けっこう多かったですよね」
「あぁ、あのころが一番よかったね。一番いい練習してたと思うね」

そのとき、日本選手団のスタッフから集合の合図があった。選手団解散のミーティングがあるらしい。濃紺のブレザーがぞろぞろとパーティー会場の外にある小部屋に向かってゆく。偉関と並んで歩きながら、「ひとつだけお願いします」と言って、もっとも聞きたかったことを口にした。

「日本卓球協会は偉関さんに強化策のアドバイスを求めてきたことがありますか」
「いやぁ、そういうのは、いまのところ特にないね」
「ないんですか。2度も世界チャンピオンになった偉関さんのところに」
「まぁ、ほら、僕、まだ選手だから」

偉関は苦々しい笑みをつくると、すみませんと言って、小部屋にはいっていった。
私も苦笑した。笑うしかなかった。

65.

中国は別格だよ──そう言ったときの偉関からは、ちょっとやそっとでは揺らぐことのない祖国にたいする強烈な誇りが感じられた。

それはもっともだろう。中国はこの大阪大会において、81年ノビサド大会、95年天津大会につづく3回目の全種目制覇を成し遂げた。天津大会から今大会までをみると、全21種目のうち金メダルを逃したのは2種目だけである。オリンピックではアトランタ、シドニーの両大会とも4種目すべてで金メダルを獲得している。すなわち、95年以降の世界選手権とオリンピックにおいて、中国は29種目のうち27種目の頂点に立つという驚異的な成績を残しているのだ。

それは私がもっとも恐れていたことだった。強すぎる中国と、不甲斐ないその他の国々という構図によって、卓球にたいするしらけた空気がメディアのなかに蔓延しはじめていたからだ。

武田と川越の記者会見でも、最後の砦となった彼女たちに、「中国の7冠を阻止できなかったことをどう思うか」と、まるですべての責任をかぶせるような質問をした記者がいたし、あるときは、練習会場にいた高島氏と私のもとに、海外の通信社の記者だという男性がやって来て、「中国の参加人数を制限するべきじゃないのか」という質問を投げかけたことがある。

案の定、シャララ会長は記者会見において「中国の一国独占問題」を取り上げた。中国の優勢は卓球にとってマイナスではないかと数多くの質問を受けたというシャララ会長は、苦しい弁明を強いられた。

「中国の結果は努力の賜物だ。中国の強さを嘆くのではなく、ほかの国は中国を見習って、卓球をプロフェッショナルなものととらえていくことが大事だろう。参加人数を制限することは、いまのところ考えていない。かりに制限しても、おなじ協会の2人が競うこともありえるからだ。卓球に興味を持ってもらうには、ほかの国が力をつけていくしかない。そのために、中国は他国のレベルアップに協力すると言っている」

日本が18年ぶりに複数のメダルを獲得したことは評価していいと思う一方で、それを手放しで喜べないのは、メディアからすれば中国の牙城を崩せなかった大会として記憶されることになるからだ。これからの世界選手権も「中国の大会」にすることを許してしまえば、メディアにとってスポーツにおける卓球への関心はますます薄れてゆく。そして、メディアのおよぼす影響力には無視できないものがある。

公にはされないだろうが、国際卓球連盟の次なる重要かつ緊急の施策は、日本などを含む「2番手国」の強化になるのではないかと私は想像した。

66.

ミーティングを終えた選手団が小部屋から出てきた。そのなかに道上進強化本部長の姿があった。ほんのりと赤みを帯びた頬に、酒席の名残がうかがえる。本部長に歩み寄った私は、報道関係者であることを告げ、「今大会の総括をお願いします」と言った。

「4年まえにソーレン・アレーンという外国人の監督を招いて、その方針を受け継いで今大会まで強化してきたんですが、男子はその成果が1年早く出て、銅メダルをとることができました。ただ、今大会は重圧に負けてしまいました。逆に、女子は伸び伸びやれて、目標を達成できたので、うれしく思います。ルーマニア戦はぎりぎりの勝負だったんですが、訓練の成果がでたと思います」

「今後はどのように強化を進めていく方針ですか」
「中国や韓国などは国を挙げて強化をしています。男子はみんなプロでやっていて、中国だと1日6時間から8時間練習しています。ただ、日本のいまの組織では、学校や会社単位になっているので、強い人が集まってやるのが難しいんです。ナショナルチームの人数をしぼって、特にジュニアの強化に重点をおいてやっていきたいと思っています」

まっとうだった。だが、まっとうな見解だったがゆえに、私はたまらなく悔しくなった。道上本部長は、ナショナルチームの強化の機会をできるだけ確保するために、各カテゴリーの事業日程を見直すなどのスケジュール調整を押し進めた人物である。それが日本の強化には必要不可欠だと考えたからであろうし、評価できる点である。ならば、なぜ、それを、地元開催の大阪大会に向けて貫き通せなかったのか。

本部長は大阪大会までソーレン・アレーンの強化方針を受け継いだという。それなら協会とのパイプ役であり、アレーンが信頼を寄せていた高島氏に辞任を要求したという疑問が残る。日本リーグなどの各カテゴリーから、高島氏とソーレン・アレーンの強化体制に批判があったと聞くが、しかし、その斬新な体制は、強化方針がころころと変わる過去のやり方への反省から発案されたものであり、ましてや協会の意志決定機関である理事会で決定されたことではなかったか。

私が悔しさをおぼえたのは、「高島君とソーレン・アレーンのやり方は日本には合わない。だから途中で方針を転換した」と言い切れる人物であれば、たとえば異を唱えた高島氏を登用しなかった荻村伊智朗氏のような人物であれば、人間としてはワンマンと評されようとも、強化本部長とすれば一目おけるかもしれないと思っていたからである。それが人の上に立つ人物に求められる資質ではないか、という感じが私にはあるのだ。

67.

そんなことを考えたとき、なぜ中国に勝てないのかの一端が、おぼろげながらわかったような気がした。それは、「信じる力」の差ではないだろうか、と。

日本の組織の特殊性だの、日本のやり方だのを自ら持ちだし、各カテゴリーの意向を優先し、世界で勝つために血を流そうとする少数派を、世界を見ようとはしない幹部が、民主的という名の仮面をつけた数の論理によって葬る。そのあいだ、常勝・中国のイメージだけをますます肥大化させ、知らず知らずのうちに、あるはずのない壁をつくりあげてしまったのではないだろうか。自分たちの力を信じるまえに。

すべての卓球人に思い起こしてほしい、と強く思った。武田、川越の生まれた年でもある1979年を最後に、日本は22年も金メダルから遠ざかっている。しかし、日本は、不参加だった1953年をのぞけば、初出場した1952年から16大会連続して、なにかしらの種目で世界の頂点に立ちつづけてきたのも事実なのだ。日本人離れした10年に1人の逸材が例外的に成し遂げた珍事ではないことの、なによりの証しではないだろうか。

多くの若い選手にとって日本の金メダルは歴史だとしても、人は歴史からなにかを学ぶことができる。それを、先達の輝かしい栄光の数々として記憶するのか、これからの日本選手にも可能な「血のルーツ」と読みとるのか。

私は信じたい。日本選手にもできると。すべての卓球関係者の力を結集し、努力を怠らなければ、「卓球ニッポン」は必ずや復活すると──。

パーティー会場から、出席者たちが続々とロビーに出てきた。押し開かれた出入口の扉の向こう側をのぞくと、暗闇が広がっていた。宴が終わったようだ。だが、世界選手権はこれで終わりではない。卓球というスポーツが存在するかぎりつづいていくはずだ。

日本の卓球界が、とびっきりの美酒に酔いしれる夜は訪れるのだろうか。信じた者すべてが、暗闇の向こうにある「栄光」にたどりつけるわけではない。しかし、栄光をつかんだ者たちは、間違いなく信じつづけた者たちであるように思えた。(完)